毎日 神様が何を望まれているのか
知りたくありませんか。
私たちが毎日をどのような動機で過ごしているか、考えてみましょう。
今日やらなくてはいけないことは、これとこれとこれで、と考えていくのが一般的です。
To Do Listにあげていって出来たらチェックしていきます。その日を終わるにあたって、やることが出来ていればOKとなるのです。
スーパーでパンを買って、ガソリンを入れて、この仕事を仕上げて、食事を作って、、、、
このような考え方は、結果志向の考え方といいます。
これに対して、プロセス志向という考え方があります。
物事の達成よりもそれをどのように行うかを重視する考え方です
皿洗いをする、という行為をとっても、歌を歌いながら楽しくやるのか、まだこんなにある、毎日毎日、何でこんなことをやらないといけないのだろうと思うながらやるというのは大分違いますね。
神の御心を考えるときでも,結果志向で私たちは考えがちです。
教会に行って、聖書を読んで、祈りをして、、、あの人に連絡をして、、、これらが出来れば大丈夫となるのです。しかしそんな私たちの生活はどこか満ち足りません。
オズワルド チェンバーズ、という人が有名な”My Utmost for His Highest”
という書物を書いていますが、その中に興味深いものがあります。
マルコによる福音書6:45-51が聖書の箇所です。
イエス様は5000人の空腹をパンと魚の奇跡によって満たした後、弟子たちに、船に乗って湖の向こう岸に行くよう指示されます。そして自らは群集を解散させます。
向こう岸に向かっていた弟子たちの船は向かい風のために漕ぎあぐねています。
するとイエス様は湖の上を歩いて、彼らに近づき、そのまま過ぎていかれようとします。弟子たちは幽霊だと思って、大声を上げます。
イエス様はそれを聞いて、言われます。「しっかりしなさい、私だ。恐れることはない」と。
そしてイエス様が乗り込まれると風はやんだのです。
弟子たちは、向こう岸に行くよう指示されたのですが、なかなか着けませんでした。
そして湖の上を歩くというイエス様を目撃することになるのです。
弟子たちは、イエス様に「向こう岸に行っていなさい」といわれ、一生懸命舟を漕いでいました。しかし困難にあっていたのです。
このときのイエス様の願われた事は何だったのでしょうか。弟子たちが向こう岸に着くことだったでしょうか。そうではありません。イエス様に目を向けていることです。そして困ったときにはイエス様に頼むという心構えをしていることです。
弟子たちは向こう岸に向かって漕ぐという行動の中で、イエス様に一緒にいていただくという、もっと大切な基本的な態度を学んだのです。
神様が求められているのは、私たちが設定する目標ではなく、私たちの基本的態度、行動のプロセスなのです。そのプロセスにイエス様を保っておくということなのです。
神さまのために、あなたは何をしようと思っていますか?
神を讃える歌を歌う。聖書の勉強会に参加する。毎日日記を書く。これらはみなよいものではありますが、神にとってそれが出来たかどうかはそれほど大切なことではないのです。
私たちがどのような行いをしていようと、それを行う中で、私たちが神に頼り、神の力に頼っているかということこそ、神の願われることなのです。
困難の中にあって、信仰を保ち、あくまでも神を第一に考え、平安をもっているのであれば、神の御心は達成されているのです。神の御心は、神が水の上を歩んでいるのを私たちが見るということです、
神が奇跡をもたらすことを私たちが経験するということです。そしてそれゆえに、何が起きても、あわてる必要はないと知ることなのです。
今、私たちは神に頼っているでしょうか。水の上を歩んでいる神を見ているでしょうか。
神の目的を実践するというのは、これとこれをしたら、将来それが実現されるというような未来のことではなく、今現在のことなのです。 私たち一人一人の今が問われているのです。
私たちが神に従った後、何が起きるかは私たちが心配することではありません。それを心配するのは間違っているのです。神は、神が私の人生の嵐の上を平然と歩いていてくださるというのを私が見ることが出来るように準備してくださっているのです。
もし私たちが先のゴールだけを見ているのなら、私たちは今の瞬間に十分注意を払っていないということになります。でも瞬間瞬間神に従うことが私たちの目的だと知ったなら、瞬間瞬間がかけがいのないものだということに気づくでしょう。
だからこそパウロは言ったのです。
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべてのことについて感謝しなさい。
これがキリストイエスにあって神があなた方に望んでおられる事です。」1テサロニケ(5:16-18)
「いつも、たえず、すべてのことについて、」ここで言われているのは、みなプロセスの言葉です。
Whatではなく、howを神様は願っておられるのです。
瞬間瞬間を神様は気にしておられます。
この瞬間、神を見て
かけがえのない時を生きたいと思います。
ー米国テキサス州ヒューストン、イエスキリストを信じる人の群れ、 疲れた心と魂を癒す場所 __________________________________________________
2007年9月8日土曜日
2007年8月23日木曜日
watashi
私たちは、毎日目が覚めると,昨日と同じ自分が目覚めたと想定する。
でも私たちはいつも一つだろうか。
目の前に大好きなケーキがあるとする。でも今は満腹だから,食べられない。
そしてそれをあきらめる。
しばらくすると、そんなに特別ではない,普通のパイが置かれたとする。
自分はそれを特に欲しいとは思っていないのに、手が動いて口に入れてしまう。あれっと思うと呑み込んでしまっていた。
そんな経験をしたことはないだろうか。
もしそんな経験があれば、ここで私の言っている事も理解していただけるかもしれない。私は実はひとつではないのではないか。
私たちは霊と肉で作られていると聖書には書かれている。ここで言う肉とは、肉体と呼ばれる物理的な実態だけを意味しない。むしろ物質としての肉体のコントロールをする何者かをさす。
霊はよいものを求める。でも肉は低級なものでも気にしない。何でも呑み込むのだ。
私たちは肉によって歩んではいけない、と聖書には書かれている。まさにそのとおりである。
貧しさというのもここに関係してくる。「貧しきものは幸いなり,神の国を見るからである。」
なぜ貧しいものが幸いなのか?心の貧しいもの、自分の罪深さを認識しているものが神の国を見られると言われている。まさにその通りなのだ。貧しくなると、肉の力が強くなる。おいしいものを求めようとしても買えない。とにかく何でも食べられるものを口に入れたくなる。そして食べた後でなぜこんなものを食べてしまったのかと,後悔する。
貧しいものはそのような自分に絶望する。落胆する。なぜこれほどまでに醜いのかという事にうんざりする。つまり自分の罪深さを見いだすのである。
肉の自分を見極めること。この地上に生きている以上、肉としての自分から決して開放されることはない。
いくら修行を積んでも、自分の努力によって、この境地から脱することは出来ない。
しかし神のみがそれを覆ってくれるのである。
でも私たちはいつも一つだろうか。
目の前に大好きなケーキがあるとする。でも今は満腹だから,食べられない。
そしてそれをあきらめる。
しばらくすると、そんなに特別ではない,普通のパイが置かれたとする。
自分はそれを特に欲しいとは思っていないのに、手が動いて口に入れてしまう。あれっと思うと呑み込んでしまっていた。
そんな経験をしたことはないだろうか。
もしそんな経験があれば、ここで私の言っている事も理解していただけるかもしれない。私は実はひとつではないのではないか。
私たちは霊と肉で作られていると聖書には書かれている。ここで言う肉とは、肉体と呼ばれる物理的な実態だけを意味しない。むしろ物質としての肉体のコントロールをする何者かをさす。
霊はよいものを求める。でも肉は低級なものでも気にしない。何でも呑み込むのだ。
私たちは肉によって歩んではいけない、と聖書には書かれている。まさにそのとおりである。
貧しさというのもここに関係してくる。「貧しきものは幸いなり,神の国を見るからである。」
なぜ貧しいものが幸いなのか?心の貧しいもの、自分の罪深さを認識しているものが神の国を見られると言われている。まさにその通りなのだ。貧しくなると、肉の力が強くなる。おいしいものを求めようとしても買えない。とにかく何でも食べられるものを口に入れたくなる。そして食べた後でなぜこんなものを食べてしまったのかと,後悔する。
貧しいものはそのような自分に絶望する。落胆する。なぜこれほどまでに醜いのかという事にうんざりする。つまり自分の罪深さを見いだすのである。
肉の自分を見極めること。この地上に生きている以上、肉としての自分から決して開放されることはない。
いくら修行を積んでも、自分の努力によって、この境地から脱することは出来ない。
しかし神のみがそれを覆ってくれるのである。
2007年8月18日土曜日
パンとワインと私たちの身体
体をもっている。
体を与えられている。
私たちの命。
私たちの生活の中で、身体というのは、とても大きな部分です。
年を取ってくると、今まで見えていたものが見えなくなったり、今まで疲れ知らずで終えられたものが休まなければならなくなったり、いろいろと故障が出てきたりします。
いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、時として体は逆らいます。
でも体は,神が創造してくださったものであり、よきものなのです。
であるならば、体にも気を配ってあげる必要があります。そして神はその手段を聖書の中で示してくださっているのです。
神は言葉です.
ですから、私たちは神を、聖書の神の言葉を通して、知ります。でもそれだけでは十分ではないのです。
聖書の先頭にある創世記という書物には、私たちは神により息を吹きかけられて,生まれたとありますが、同時に塵から作られたとも、書かれています。私たちは少なくとも霊と体と言う二つのものからなっているのです。
神の言葉は私たちの霊に訴えます。しかし私たちの体に訴えるものも必要です。
言い換えれば、人間と完全にコミュニケーションをとるには、超越的な言葉による方法と,地上的なものによる方法の2つによる必要があるのです。
それが神との物質的な交流、すなわちコミュニオン(聖餐式(せいさんしき)なのです。
これはキリスト教ではサクラメント(秘跡)の一つとなっています。何を秘跡とするのか,というのは,キリスト教の宗派間で意見が分かれています。たとえばカソリックヤエピスコパリアンでは7つの秘跡を定めています。しかし他のプロテスタント諸教会の多くは、バプテスマ、聖餐式、この2つを秘跡としているところが多いのです。バプテスマは一生に一回というのが普通ですが、聖餐式の回数はいろいろと差があります。プロテスタントでも、毎週行うところもあれば、1年に2回しかしないところなどもあります。
しかし聖餐式というのは、霊と肉の葛藤に悩む私たちにとって、非常に大切な役割を担っているのです。神は本当の意味で生きているとは言えない私たち一人一人のために、自分の命を犠牲にし、本当の命を与えられたのです。罪のために永遠のさばきにあわなければいけない私たちのために、自ら血を流し、私たちに許しを与えられたのです。こんな祝福が他にあるでしょうか。
神は義なる方ですが、同時に愛のお方であり、与えるお方です。聖餐式は、私たちが神の前に出て、神から与えられる恵を受ける場なのです。これをしないと、自分だけで神を称えたつもりになっていて、神から受ける恵みに感謝しなくなる危険性があります。
イエス様の裂かれた体であるパンと、神が私たちを許すために、イエス様の流された血であるワインを大切にしていきたいと思います。
パンを食べ、ワインを受けることにより、私たちはこのすばらしい神が、今も生きていてくださることを身体の感覚として受けいれられるのです。食べる,飲むという一番基本的な生命行動を通して、私たちは神が今ここにいらっしゃって、私たちとともに生きていてくださるということを経験するのです。
聖餐式の時だけでなく、日常に食事をするときにも感謝することをさすれないようにしましょう。
「私たちの日ごとの糧を今日もおあたえください」という主の祈りの一節にもあるように、主は毎日与えられるお方です。
身体とパンとワイン、この3つは私たちの命にとって切っても切れないものなのです。
体を与えられている。
私たちの命。
私たちの生活の中で、身体というのは、とても大きな部分です。
年を取ってくると、今まで見えていたものが見えなくなったり、今まで疲れ知らずで終えられたものが休まなければならなくなったり、いろいろと故障が出てきたりします。
いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、時として体は逆らいます。
でも体は,神が創造してくださったものであり、よきものなのです。
であるならば、体にも気を配ってあげる必要があります。そして神はその手段を聖書の中で示してくださっているのです。
神は言葉です.
ですから、私たちは神を、聖書の神の言葉を通して、知ります。でもそれだけでは十分ではないのです。
聖書の先頭にある創世記という書物には、私たちは神により息を吹きかけられて,生まれたとありますが、同時に塵から作られたとも、書かれています。私たちは少なくとも霊と体と言う二つのものからなっているのです。
神の言葉は私たちの霊に訴えます。しかし私たちの体に訴えるものも必要です。
言い換えれば、人間と完全にコミュニケーションをとるには、超越的な言葉による方法と,地上的なものによる方法の2つによる必要があるのです。
それが神との物質的な交流、すなわちコミュニオン(聖餐式(せいさんしき)なのです。
これはキリスト教ではサクラメント(秘跡)の一つとなっています。何を秘跡とするのか,というのは,キリスト教の宗派間で意見が分かれています。たとえばカソリックヤエピスコパリアンでは7つの秘跡を定めています。しかし他のプロテスタント諸教会の多くは、バプテスマ、聖餐式、この2つを秘跡としているところが多いのです。バプテスマは一生に一回というのが普通ですが、聖餐式の回数はいろいろと差があります。プロテスタントでも、毎週行うところもあれば、1年に2回しかしないところなどもあります。
しかし聖餐式というのは、霊と肉の葛藤に悩む私たちにとって、非常に大切な役割を担っているのです。神は本当の意味で生きているとは言えない私たち一人一人のために、自分の命を犠牲にし、本当の命を与えられたのです。罪のために永遠のさばきにあわなければいけない私たちのために、自ら血を流し、私たちに許しを与えられたのです。こんな祝福が他にあるでしょうか。
神は義なる方ですが、同時に愛のお方であり、与えるお方です。聖餐式は、私たちが神の前に出て、神から与えられる恵を受ける場なのです。これをしないと、自分だけで神を称えたつもりになっていて、神から受ける恵みに感謝しなくなる危険性があります。
イエス様の裂かれた体であるパンと、神が私たちを許すために、イエス様の流された血であるワインを大切にしていきたいと思います。
パンを食べ、ワインを受けることにより、私たちはこのすばらしい神が、今も生きていてくださることを身体の感覚として受けいれられるのです。食べる,飲むという一番基本的な生命行動を通して、私たちは神が今ここにいらっしゃって、私たちとともに生きていてくださるということを経験するのです。
聖餐式の時だけでなく、日常に食事をするときにも感謝することをさすれないようにしましょう。
「私たちの日ごとの糧を今日もおあたえください」という主の祈りの一節にもあるように、主は毎日与えられるお方です。
身体とパンとワイン、この3つは私たちの命にとって切っても切れないものなのです。
2007年7月30日月曜日
祈りの力
私たちは困ったとき、よく祈ります。
「病気が治りますように」だったり、
「経済的な危機から逃れられますように」というのもあるでしょうし、
「ヒューストンに新しい日本人教会ができますように」というのもあるかもしれません。、、、
そして病気が治ったら、祈りが通じたといって、喜びます。
しかし病気は治らないこともあります。経済的な問題が解決されないこともあります。
そんなとき人はどうして祈りが聞かれないのだ、とがっかりし、神様に怒ったり、本当に神はいるのかと疑ったりします。
あるいは「わたしが十分悔い改めていないからだ」とか、「神様はどうせ私なんか気にしてくださらないんだ」と、すねたりするかもしれません。私もこのように考えてしまうことが多いのです。でも教会の子供の日曜学校の教材を見て、このような考え方がちょっとずれているということに気がつきました。
祈りというのは、何のために行のかということなのです。
祈りというのは神とのコミュニケーションです。コミュニケーションですから、ボールを投げるというだけでなく、キャッチボール自体にも意味があるのです。ジャガイモをなげてもいいし、紙飛行機を飛ばし合ってもいいんです。
伝達する情報はたいしたものでなくても、コミュニケーションは成り立ちます。つまり結果がすべてではないのです。
本当の祈りというのは結果を知ることにこだわるものではありません。
病気が治るように祈った結果病気が治らなかったとしても、その祈りは無駄ではなかったのです。
祈りっていうのは、神と一緒の空間のなかにいるということ、神とやりとりをする事なんじゃないかな,と思います。
聖書には「永遠の命」ということがでてきますが、それは神を知る事だとも書かれています。
そして神を知るというのは神と触れ合うこと、神と親しくなるということです。
つまり祈りの中にこそ永遠の命の道が開かれているのです。
祈りのすばらしさはそれだけじゃないんです。
「とりなしの祈り」ということばを聞いた事,ありますか?
これは他の人のために祈ることです。
ほかの人をあなたとともに神の臨在の中に連れてくることなのです。
つまり私たちが中に入って、ほかの人に神と触れ合う機会を持ってもらうことです。
祈られた人はそのことに気がついていないかもしれません。でも私たちの祈りの中で、神の臨在の中にいた、ということが大切なんです。神は命ですから、すべての人の命の根本のところに関わっています。
結果をどうこう言うのではなく、神の御心にいろいろな人を連れて行こうではありませんか。そして後は神様に任せるのです。
あなたが憎んでいる人がいたら、その人を神の臨在の中に連れてきて、愛の滝を受けさせてみたらどうでしょう。「そんな事できるか」なんて言わないでください。きっと自分自身もすっきりするはずです。一度だまされたと思ってやってみてください。
神は「生ける命の水である」という聖書のことばもあります。神には癒しの力があるのです。愛の滝は、癒しの滝です。命の水がその人の体中をくまなくびしょびしょにして、癒してくださるはずです。
祈りが、とてつもないものだという事を伝えたかったのですが、、、
今この時も、誰かが祈りの中で神の愛の滝を私たちに注いでくれているかもしれません。
ヒューストンの教会に通う日本人のつぶやきでした。
「病気が治りますように」だったり、
「経済的な危機から逃れられますように」というのもあるでしょうし、
「ヒューストンに新しい日本人教会ができますように」というのもあるかもしれません。、、、
そして病気が治ったら、祈りが通じたといって、喜びます。
しかし病気は治らないこともあります。経済的な問題が解決されないこともあります。
そんなとき人はどうして祈りが聞かれないのだ、とがっかりし、神様に怒ったり、本当に神はいるのかと疑ったりします。
あるいは「わたしが十分悔い改めていないからだ」とか、「神様はどうせ私なんか気にしてくださらないんだ」と、すねたりするかもしれません。私もこのように考えてしまうことが多いのです。でも教会の子供の日曜学校の教材を見て、このような考え方がちょっとずれているということに気がつきました。
祈りというのは、何のために行のかということなのです。
祈りというのは神とのコミュニケーションです。コミュニケーションですから、ボールを投げるというだけでなく、キャッチボール自体にも意味があるのです。ジャガイモをなげてもいいし、紙飛行機を飛ばし合ってもいいんです。
伝達する情報はたいしたものでなくても、コミュニケーションは成り立ちます。つまり結果がすべてではないのです。
本当の祈りというのは結果を知ることにこだわるものではありません。
病気が治るように祈った結果病気が治らなかったとしても、その祈りは無駄ではなかったのです。
祈りっていうのは、神と一緒の空間のなかにいるということ、神とやりとりをする事なんじゃないかな,と思います。
聖書には「永遠の命」ということがでてきますが、それは神を知る事だとも書かれています。
そして神を知るというのは神と触れ合うこと、神と親しくなるということです。
つまり祈りの中にこそ永遠の命の道が開かれているのです。
祈りのすばらしさはそれだけじゃないんです。
「とりなしの祈り」ということばを聞いた事,ありますか?
これは他の人のために祈ることです。
ほかの人をあなたとともに神の臨在の中に連れてくることなのです。
つまり私たちが中に入って、ほかの人に神と触れ合う機会を持ってもらうことです。
祈られた人はそのことに気がついていないかもしれません。でも私たちの祈りの中で、神の臨在の中にいた、ということが大切なんです。神は命ですから、すべての人の命の根本のところに関わっています。
結果をどうこう言うのではなく、神の御心にいろいろな人を連れて行こうではありませんか。そして後は神様に任せるのです。
あなたが憎んでいる人がいたら、その人を神の臨在の中に連れてきて、愛の滝を受けさせてみたらどうでしょう。「そんな事できるか」なんて言わないでください。きっと自分自身もすっきりするはずです。一度だまされたと思ってやってみてください。
神は「生ける命の水である」という聖書のことばもあります。神には癒しの力があるのです。愛の滝は、癒しの滝です。命の水がその人の体中をくまなくびしょびしょにして、癒してくださるはずです。
祈りが、とてつもないものだという事を伝えたかったのですが、、、
今この時も、誰かが祈りの中で神の愛の滝を私たちに注いでくれているかもしれません。
ヒューストンの教会に通う日本人のつぶやきでした。
2007年6月26日火曜日
階段を上りたい
私の仕事場は6階にある。最近、毎朝6階まで階段を上るようにしている。
もちろん運動不足を少しでも解消しようと言う魂胆からであるが、
6階につくと、息が荒くなり、しばらく休んでしまうのは悲しいところだ。
休みついでに、「階段を上る」という行動を考えてみた。
階段をあがるというのは、人間の基本的な行動原理になっているのではないだろうか。
6階まで上がると、達成感がある。この達成感はそれなりに励みになる。
マラソンでもそう。1マイル走ったら、2マイルに挑戦できる気がしてくる。どこまでいけるか試してみたくなる。
毎日勉強をする。少しわかってきたら、もっと進める。少しでも自分がわかるようになりたいから。
毎日仕事をする、少しでも売り上げを伸ばしたいから。
聖書を読む、少しでも洞察を得たいから
毎週,教会に行く。すこしでも神様に近づきたいから。
少しでも上に上がるために、毎日を、毎月を、毎年を過ごす。これが出来なくて、がっかりすることも多いけれど、これは人間の基本的行動原理。
でもこれは自分中心の考え方。
これをすれば、こうなる。これをしないと、ああなってしまう。、、、
英語で言えば、If, Thenの世界。
あくまでも人間が最初に来ているのだ。
ここに神を入れてはいけない。神は人間に操作されるお方ではないからだ。
逆に私たちは神の似姿に作られたのであるから、神を知るときには、神から学ぶべきだ。
聖書に書かれている神は、あくまでも最初にアクションを起こしてくださっている。
アダムとイブが禁じられていた木の実を食べて隠れていたとき、探しにきてくださったのは神であった。
人間が何とか上に上がろうとしては、ずるっとずっこけてしまっているときに。赤ん坊として、すばらしい贈り物を持って、降りてきてくださったのは神だった。
私たちが何か評価に値することをしたから、神様が来てくださったのではない。
それとは逆だ。本当なら怒られてもおかしくはない。
ひどいことをしたのだから。
でも神は許してくださる。
神の愛だ。
神の愛のアクションがあるから、私たちはそれを受け入れるだけでいい。
神の愛の招きがあるから、私たちはそれに応じるだけでよい。
そう考えると日常の私たちの世界はがらっと変わってくる。
デートの待ち合わせ場所で愛する人と待ち合わせをしている時のように、聖書という場所で、神様が待っていてくださるから、私たちはそこに会いにいくのだ。
「教会に行く」のではなく、「神様が交流をしようと待っていらっしゃる教会に行く」、、、
英語で言えば、Because , thereforeの世界。
神様が来てくださるから、私も行くのだ。
神様がひっぱって下さるから、私も上に上るのだ。
「受け身」というのは、この世的に言うとマイナスのイメージを持っている。
しかし神様と私たちの関係を考えたとき、この「受け身」はきわめて、正しい。
神の愛、率直にただ受け取るしかない。
感謝をもって
いつも生きていたい、、、
つくづく思う。
もちろん運動不足を少しでも解消しようと言う魂胆からであるが、
6階につくと、息が荒くなり、しばらく休んでしまうのは悲しいところだ。
休みついでに、「階段を上る」という行動を考えてみた。
階段をあがるというのは、人間の基本的な行動原理になっているのではないだろうか。
6階まで上がると、達成感がある。この達成感はそれなりに励みになる。
マラソンでもそう。1マイル走ったら、2マイルに挑戦できる気がしてくる。どこまでいけるか試してみたくなる。
毎日勉強をする。少しわかってきたら、もっと進める。少しでも自分がわかるようになりたいから。
毎日仕事をする、少しでも売り上げを伸ばしたいから。
聖書を読む、少しでも洞察を得たいから
毎週,教会に行く。すこしでも神様に近づきたいから。
少しでも上に上がるために、毎日を、毎月を、毎年を過ごす。これが出来なくて、がっかりすることも多いけれど、これは人間の基本的行動原理。
でもこれは自分中心の考え方。
これをすれば、こうなる。これをしないと、ああなってしまう。、、、
英語で言えば、If, Thenの世界。
あくまでも人間が最初に来ているのだ。
ここに神を入れてはいけない。神は人間に操作されるお方ではないからだ。
逆に私たちは神の似姿に作られたのであるから、神を知るときには、神から学ぶべきだ。
聖書に書かれている神は、あくまでも最初にアクションを起こしてくださっている。
アダムとイブが禁じられていた木の実を食べて隠れていたとき、探しにきてくださったのは神であった。
人間が何とか上に上がろうとしては、ずるっとずっこけてしまっているときに。赤ん坊として、すばらしい贈り物を持って、降りてきてくださったのは神だった。
私たちが何か評価に値することをしたから、神様が来てくださったのではない。
それとは逆だ。本当なら怒られてもおかしくはない。
ひどいことをしたのだから。
でも神は許してくださる。
神の愛だ。
神の愛のアクションがあるから、私たちはそれを受け入れるだけでいい。
神の愛の招きがあるから、私たちはそれに応じるだけでよい。
そう考えると日常の私たちの世界はがらっと変わってくる。
デートの待ち合わせ場所で愛する人と待ち合わせをしている時のように、聖書という場所で、神様が待っていてくださるから、私たちはそこに会いにいくのだ。
「教会に行く」のではなく、「神様が交流をしようと待っていらっしゃる教会に行く」、、、
英語で言えば、Because , thereforeの世界。
神様が来てくださるから、私も行くのだ。
神様がひっぱって下さるから、私も上に上るのだ。
「受け身」というのは、この世的に言うとマイナスのイメージを持っている。
しかし神様と私たちの関係を考えたとき、この「受け身」はきわめて、正しい。
神の愛、率直にただ受け取るしかない。
感謝をもって
いつも生きていたい、、、
つくづく思う。
Evan the Almighty
米国では”Evan The Almighty”という映画が先週封切られました。
これは旧約聖書のノアの箱舟を基にしたコメディー映画ですが、"Bruce The Almighty"という映画の続編だそうです。
テレビの宣伝を見る限りでは、動物がたくさん出てきていましたが、実際の映画はどうでしょうか。
私は見ようと思っていたのですが、まだ見ていません。
すでに見られた方は、コメントをいただけると幸いです。
これは旧約聖書のノアの箱舟を基にしたコメディー映画ですが、"Bruce The Almighty"という映画の続編だそうです。
テレビの宣伝を見る限りでは、動物がたくさん出てきていましたが、実際の映画はどうでしょうか。
私は見ようと思っていたのですが、まだ見ていません。
すでに見られた方は、コメントをいただけると幸いです。
2007年6月9日土曜日
幕屋について(2)
以前幕屋について、少し書いたことがありますが、今回はその第2弾として書いてみたいと思います。
旧約聖書の時代、つまり紀元前1500年ごろから紀元前500年くらいまで、幕屋というのは、唯一イスラエルの民が神とコミュニケーションを持つことが出来る場所でした。といっても、直接的なものではなかったのです。民は犠牲にささげる動物を幕屋に持ってきて祭司に渡し、祭司が民の代わりとして犠牲の動物を燃やし、そして神への働きかけを行うというものでした。
しかし、イエスキリストが現れて、これが変わるのです。イエス様が幕屋となられたのです。民はイエス様のところに、行きさえすれば、イエス様が後のことを行ってくださるのです。神様を知ろうと思ったら、イエス様のところに行けばよいのです。
イエス様がものすごいのは、幕屋になられたというだけでなく、祭司にもなられたということです。私たちの生きてきた人生を振り返ってみると、自分勝手に生きてきた、と思うところはありませんか。誤った選択をしたこともあったでしょう。あるいは人に引きずり回されてしまったということもあったかもしれません。でもどちらの場合にも神さまにしたがっていなかったと言うことは確かなのです。これを罪といいます。イエス様は私たちの罪を引き受けられ、私たちのために神に向かって弁護してくださるのです。
でもそれだけでもありません。イエス様は犠牲の獣にもなられたのです。私たちを創造されたのは神様であり、イエス様であるにもかかわらず、私たちの身勝手さを償うために、自ら犠牲の動物となって、死に赴かれたのです。
こんな方がいらっしゃるでしょうか。
このイエス様は、今イスラエルの民だけでなく、異邦人、つまりわれわれ日本人のためにも大きく手を広げて、私たちが神の元に戻ってくるのを待っていてくださるのです。私なんか、こんなに悪いことをしたのだから、神様にも目をかけてもらえないとか、思う必要はないのです。神の前にすべての人は平等なのです。神様の愛は私たちが創造するよりずっと深く大きいのです。一方キリストを信じる人は、偽善者だとか、よい子ちゃんだとか思う必要もありません。キリストを信じる者も自分の罪に悩み、些細なことでけんかをする、ただの人間です。ただイエス様の行ってくださった許しに心から感謝をし、毎日の生活を感謝を持って送ろうとしているのです。
こんなすばらしい、イエス様をもっと知ってみませんか?
旧約聖書の時代、つまり紀元前1500年ごろから紀元前500年くらいまで、幕屋というのは、唯一イスラエルの民が神とコミュニケーションを持つことが出来る場所でした。といっても、直接的なものではなかったのです。民は犠牲にささげる動物を幕屋に持ってきて祭司に渡し、祭司が民の代わりとして犠牲の動物を燃やし、そして神への働きかけを行うというものでした。
しかし、イエスキリストが現れて、これが変わるのです。イエス様が幕屋となられたのです。民はイエス様のところに、行きさえすれば、イエス様が後のことを行ってくださるのです。神様を知ろうと思ったら、イエス様のところに行けばよいのです。
イエス様がものすごいのは、幕屋になられたというだけでなく、祭司にもなられたということです。私たちの生きてきた人生を振り返ってみると、自分勝手に生きてきた、と思うところはありませんか。誤った選択をしたこともあったでしょう。あるいは人に引きずり回されてしまったということもあったかもしれません。でもどちらの場合にも神さまにしたがっていなかったと言うことは確かなのです。これを罪といいます。イエス様は私たちの罪を引き受けられ、私たちのために神に向かって弁護してくださるのです。
でもそれだけでもありません。イエス様は犠牲の獣にもなられたのです。私たちを創造されたのは神様であり、イエス様であるにもかかわらず、私たちの身勝手さを償うために、自ら犠牲の動物となって、死に赴かれたのです。
こんな方がいらっしゃるでしょうか。
このイエス様は、今イスラエルの民だけでなく、異邦人、つまりわれわれ日本人のためにも大きく手を広げて、私たちが神の元に戻ってくるのを待っていてくださるのです。私なんか、こんなに悪いことをしたのだから、神様にも目をかけてもらえないとか、思う必要はないのです。神の前にすべての人は平等なのです。神様の愛は私たちが創造するよりずっと深く大きいのです。一方キリストを信じる人は、偽善者だとか、よい子ちゃんだとか思う必要もありません。キリストを信じる者も自分の罪に悩み、些細なことでけんかをする、ただの人間です。ただイエス様の行ってくださった許しに心から感謝をし、毎日の生活を感謝を持って送ろうとしているのです。
こんなすばらしい、イエス様をもっと知ってみませんか?
2007年5月21日月曜日
幕屋について
幕屋ということばがあります。
英語でtabernacleという言葉の日本語訳です。テントというとわかりやすいでしょうか。つまり簡易式の家なのです。
この言葉は旧約聖書にも出てきます。「出エジプト記」という書の中で、「あなたがたが幕屋を作るなら、私はあなた方の間に住む」という神の言葉が出てきます。これは非常に興味深い言葉です。まずひとつに、あなた方の間に住むと言っているのであって、あなた方の中に住むとはいわれていないという事です。幕屋という仮の家を造っても、そこに神は住まわれるのではなく、あなた方、つまり人と人の間に住まわれる、というのです。私達の見逃しやすい真理がここに示されているのではないでしょうか。神は私達の中に住んでは下さらないのです。私達の中に神が住んでしまうと、私達自身が何か崇高なものになったかのような錯覚を抱いてしまうからです。これはセルフィッシュネスにつながり、非常に危険なものなのです。このことは物理的な教会を崇拝してはいけないというのと同じ事です。建物としての教会も、それはただの入れ物であって、別に礼拝すべきものではないのです。しかし人はえてして教会という建物を礼拝したがります。毎週その建物に行く事によって、自分も崇高になれるような錯覚を抱くのです。しかし人が作ったものに神は住まわれないのです。神は人にコントロールされるようなお方ではないのです。そうではなくて、神は神を信じる人と人との間に住まわれるのです。一人では神との交わりは出来ないというのは、ここからも分かるのではないでしょうか。人と人の間なのです。
「ある人々のように、一緒に集まる事をやめたりしないで、帰って励ましあい、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル9:25)
私達もイエスキリストを信じる人との関係を大切にしましょう。神が見つからないと言って嘆いている人がいるならば、神は空を見て、自分の中をのぞいても、教会の建物を覗いて、おられません。人との交わりの中でこそ、神を見つける事が出来るのです。集まってください。神を見る為に。.
英語でtabernacleという言葉の日本語訳です。テントというとわかりやすいでしょうか。つまり簡易式の家なのです。
この言葉は旧約聖書にも出てきます。「出エジプト記」という書の中で、「あなたがたが幕屋を作るなら、私はあなた方の間に住む」という神の言葉が出てきます。これは非常に興味深い言葉です。まずひとつに、あなた方の間に住むと言っているのであって、あなた方の中に住むとはいわれていないという事です。幕屋という仮の家を造っても、そこに神は住まわれるのではなく、あなた方、つまり人と人の間に住まわれる、というのです。私達の見逃しやすい真理がここに示されているのではないでしょうか。神は私達の中に住んでは下さらないのです。私達の中に神が住んでしまうと、私達自身が何か崇高なものになったかのような錯覚を抱いてしまうからです。これはセルフィッシュネスにつながり、非常に危険なものなのです。このことは物理的な教会を崇拝してはいけないというのと同じ事です。建物としての教会も、それはただの入れ物であって、別に礼拝すべきものではないのです。しかし人はえてして教会という建物を礼拝したがります。毎週その建物に行く事によって、自分も崇高になれるような錯覚を抱くのです。しかし人が作ったものに神は住まわれないのです。神は人にコントロールされるようなお方ではないのです。そうではなくて、神は神を信じる人と人との間に住まわれるのです。一人では神との交わりは出来ないというのは、ここからも分かるのではないでしょうか。人と人の間なのです。
「ある人々のように、一緒に集まる事をやめたりしないで、帰って励ましあい、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル9:25)
私達もイエスキリストを信じる人との関係を大切にしましょう。神が見つからないと言って嘆いている人がいるならば、神は空を見て、自分の中をのぞいても、教会の建物を覗いて、おられません。人との交わりの中でこそ、神を見つける事が出来るのです。集まってください。神を見る為に。.
2007年5月16日水曜日
(十戒)の解釈
私の住んでいるテキサス州ヒューストンにはいろいろな宗派の教会があります。以前ルーテル教会に行ったことがあります。
ルーテル教会はもちろんマルティン ルターがカソリックに対して立ち上がった所から始まるキリスト教プロテスタントの一派ですが、教えの中ではカソリックに近い所もある事を知りました。「10戒」というのが聖書にありますが、どれを10の戒めにするかという所が、他のプロテスタント(南部バプティストなどと違うのです。他のプロテスタントやギリシャ正教では、「私以外の他の神を崇めてはいけない」、と「神のイメージを作ってはいけない」が、別々の戒めになっていますが、ルーテル派やカソリックでは、これらが一緒になってひとつの戒めになっていると考えるのです。従って他のプロテスタントでは10番目の戒め、「隣人の家、妻その他をうらやんではいけない」となっているところが、ルーテル派では「隣人の家をうらやむな」、というのと、「隣人の妻やその他をうらやむな」、という2つに分かれているという事です。サムエル シュルツという方の書かれた"The Old Testament Speaks" という本に載っていました。
ルーテル教会はもちろんマルティン ルターがカソリックに対して立ち上がった所から始まるキリスト教プロテスタントの一派ですが、教えの中ではカソリックに近い所もある事を知りました。「10戒」というのが聖書にありますが、どれを10の戒めにするかという所が、他のプロテスタント(南部バプティストなどと違うのです。他のプロテスタントやギリシャ正教では、「私以外の他の神を崇めてはいけない」、と「神のイメージを作ってはいけない」が、別々の戒めになっていますが、ルーテル派やカソリックでは、これらが一緒になってひとつの戒めになっていると考えるのです。従って他のプロテスタントでは10番目の戒め、「隣人の家、妻その他をうらやんではいけない」となっているところが、ルーテル派では「隣人の家をうらやむな」、というのと、「隣人の妻やその他をうらやむな」、という2つに分かれているという事です。サムエル シュルツという方の書かれた"The Old Testament Speaks" という本に載っていました。
2007年5月15日火曜日
どの教会に行こうか
米国にはその人口の84%以上がクリスチャンであるという統計があります(オペレーションワールド)。これはイギリスやドイツの60%台に比べてかなり高い数字です。しかし非常に多くの宗派がある事も事実です。カソリックとプロテスタント、東方正教会というだけではありません。プロテスタントにも無数に近い宗派があり、その中のひとつひとつの教会がそれぞれユニークなイエスキリストの体として機能しているのです。ですからどの教会に行こうかと考える時、自分の家に近いかどうかとか、知り合いがいるというのも重要な要素ですが、選択は慎重にする必要があります。というのも宗派が違うと、礼拝の仕方や社会問題に対する意識も全く異なるからです。
そこで、キリスト教の中で、それぞれのデノミネーションの違いについてかいま見てみたいと思います。
1、まず第一に、礼拝に於いて何を強調するかによって分類することができます。礼拝の中で神との接点を持つ事を第一に考え、「聖餐式」を重んじるグループ(メインラインと言われている宗派、すなわち、ルーテル、エピスコパリアン、プレスビテリアン、ユナイテッドメソジストなど、このグループの中でもどのくらい昔からの儀式を重んじるかによって差があります)、第2のグループは神との接点を持つという点では第一のグループと共通するものの、聖霊に導かれて、踊ったり、異言を口にするなどを重要視するところ(ペンテコスタル)、そして第3に礼拝の中では神の言葉を聞く、つまり「説教」を強調するグループ(サザンバプティスト)があげられます。
2、第2の軸として、社会問題に対する態度が上げられます。女性が牧師を努める事への是非、同性愛、堕胎などに関して、それぞれのデノミネーション、そしてそれぞれの教会が異なった見解を持っています。興味深いのは、昔ながらの聖餐式などの儀式を重んじる(外見にこだわる)宗派は、社会問題に対してリベラルな所が多いという事です。一方儀式にこだわらずに、説教を重視する所は、聖書を第一に考えるので、社会問題に対して厳しい傾向があるように思います。
そこで、キリスト教の中で、それぞれのデノミネーションの違いについてかいま見てみたいと思います。
1、まず第一に、礼拝に於いて何を強調するかによって分類することができます。礼拝の中で神との接点を持つ事を第一に考え、「聖餐式」を重んじるグループ(メインラインと言われている宗派、すなわち、ルーテル、エピスコパリアン、プレスビテリアン、ユナイテッドメソジストなど、このグループの中でもどのくらい昔からの儀式を重んじるかによって差があります)、第2のグループは神との接点を持つという点では第一のグループと共通するものの、聖霊に導かれて、踊ったり、異言を口にするなどを重要視するところ(ペンテコスタル)、そして第3に礼拝の中では神の言葉を聞く、つまり「説教」を強調するグループ(サザンバプティスト)があげられます。
2、第2の軸として、社会問題に対する態度が上げられます。女性が牧師を努める事への是非、同性愛、堕胎などに関して、それぞれのデノミネーション、そしてそれぞれの教会が異なった見解を持っています。興味深いのは、昔ながらの聖餐式などの儀式を重んじる(外見にこだわる)宗派は、社会問題に対してリベラルな所が多いという事です。一方儀式にこだわらずに、説教を重視する所は、聖書を第一に考えるので、社会問題に対して厳しい傾向があるように思います。
2007年4月8日日曜日
受難週
テキサスでは、ブルーボネットを見かける季節です。
そして本日はイースター(復活祭)。
先週は受難週といわれる一週間でした。
木曜日は、聖木曜日(Maundy thursday)、金曜日は聖金曜日(Good Friday)でした。
この3日間はクリスチャンにとってもとても大切な3日間です。
まず聖木曜日、この日はイエスキリストが十字架につく前の晩です。最後の晩餐、弟
子の足を洗う、ゲッセマネのイエスの苦しみ、そしてイスカリオテのユダの心にイエス様を裏切る決心がついた日でもあります。これらはどれも大切なことです。
ところで、なぜMaundyというのでしょうか。これはラテン語の言葉から来ているとい
う事です。
ヨハネの福音書13:34に、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方
は互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、そのようにあなた方も互い
に愛し合いなさい」という言葉がありますが、この最初の言葉(戒め)からきている
ということです。この戒めを象徴するのが「足を洗う」ということです。この木曜日
に礼拝を行う教会の中には、この木曜日、足を洗うという儀式をする所もあるようで
す。
そして聖金曜日はイエス様が十字架につかれた日です。 イエス様が十字架上で息を引き取ったとき、「完了した」。と言われました。私たち罪の性質を持ち、何度注意されても罪から抜け出せない私たちを、それでも愛してくださり、自分の身を犠牲にして救ってくださったのです。
そして日曜日はイースター、復活祭です。
私は今年、初めてそれぞれの日に教会で礼拝に参加し、一つづつのできごとを実際に起こったこととして追体験する試みをしてみました。
今までパームサンデー、イースターサンデーだけに参加していた時には大衆の大歓迎とイエス様の復活の喜びの中で見えにくくなっていましたが、イエス様の体験された時間の長さで追体験することにより、今までわからなかったイエス様の苦しみが、経験できたからです。
特に木曜日、金曜日は礼拝の中でも沈黙の中ですごす事が多く、その沈黙の礼拝の中で、改めて私の信仰
の浅薄さを痛感しました。
この受難週、好きなものを絶って、イエスの苦しみを思う人もいます。
どう過すにせよ、イエスキリストの私たちへの愛、そして私たちの使命をしっかり
と抱えて、過ごしたいと思います。
そして本日はイースター(復活祭)。
先週は受難週といわれる一週間でした。
木曜日は、聖木曜日(Maundy thursday)、金曜日は聖金曜日(Good Friday)でした。
この3日間はクリスチャンにとってもとても大切な3日間です。
まず聖木曜日、この日はイエスキリストが十字架につく前の晩です。最後の晩餐、弟
子の足を洗う、ゲッセマネのイエスの苦しみ、そしてイスカリオテのユダの心にイエス様を裏切る決心がついた日でもあります。これらはどれも大切なことです。
ところで、なぜMaundyというのでしょうか。これはラテン語の言葉から来ているとい
う事です。
ヨハネの福音書13:34に、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方
は互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したように、そのようにあなた方も互い
に愛し合いなさい」という言葉がありますが、この最初の言葉(戒め)からきている
ということです。この戒めを象徴するのが「足を洗う」ということです。この木曜日
に礼拝を行う教会の中には、この木曜日、足を洗うという儀式をする所もあるようで
す。
そして聖金曜日はイエス様が十字架につかれた日です。 イエス様が十字架上で息を引き取ったとき、「完了した」。と言われました。私たち罪の性質を持ち、何度注意されても罪から抜け出せない私たちを、それでも愛してくださり、自分の身を犠牲にして救ってくださったのです。
そして日曜日はイースター、復活祭です。
私は今年、初めてそれぞれの日に教会で礼拝に参加し、一つづつのできごとを実際に起こったこととして追体験する試みをしてみました。
今までパームサンデー、イースターサンデーだけに参加していた時には大衆の大歓迎とイエス様の復活の喜びの中で見えにくくなっていましたが、イエス様の体験された時間の長さで追体験することにより、今までわからなかったイエス様の苦しみが、経験できたからです。
特に木曜日、金曜日は礼拝の中でも沈黙の中ですごす事が多く、その沈黙の礼拝の中で、改めて私の信仰
の浅薄さを痛感しました。
この受難週、好きなものを絶って、イエスの苦しみを思う人もいます。
どう過すにせよ、イエスキリストの私たちへの愛、そして私たちの使命をしっかり
と抱えて、過ごしたいと思います。
2007年3月6日火曜日
2007年3月4日日曜日
ペリカン
2007年3月3日土曜日
価値のあるもの
毎日、郵便箱を確認するとき、何かいい知らせがきているかも、と思う事はありませんか?
ヒューストンの我が家でも、郵便箱に郵便を取りにいくときは、そんな気分になる事もありますが、ジャンクメールという無差別にばらまかれた広告が半数以上入っています。何かが当たりましたというようなトリッキーな広告もあります。よく読んでいったり、連絡をすると、何かを買う必要があるという事が分かってくるのです。
すばらしい贈り物が突然送られてくるなんて、待っていてはいけないのです。
でもひとつだけ例外があるように思います。
聖書の中で、イエス様は「私の父の家には住まいがたくさんあって、あなた方のために場所を備えに行く」と言われました。そしてさらに、「場所を備えたら、あなた方を迎えに来る」といわれているのです。
一気にすばらしい家に住める事になる。そんなことがあるのでしょうか。あるとしてもどのようにすればそんなことが可能なのでしょう。
イエス様は聖書の中で、それに答えて言われます。「私が道である」
キリスト教では、イエス様自身が道だと言うことですが、分かったようで分からない表現ですね。空港に行くと、「動く歩道」というものがあって、それに乗れば、自分の飛行機に乗るゲートの近くまですっと早く行くことが出来ます。イエス様が道だと言われたのもそんな感じではないでしょうか。とにかくイエス様に寄り添っていけばいいということです。イエス様の備えてくださる家を得るには、どんなことがあっても教会に行かなければならないと規定するのいではなく、また毎日早く起きて聖書を読まなければならない、人に対して、腹を立ててはいけないというようなものではなく、クリスチャンとしてまず寄り添うことが大切なのです。これこそが、キリスト教のよいところなのではないでしょうか。普通「よいものを得るには、xxをする必要がある」というのが世の常識ですが、イエス様に感謝し、イエス様に寄り添う、イエス様との関わりの中からよいものが作られていくのです。
クリスチャンとして歩むという事について、これから、少しづつ皆様とともに考えていきたいと思います。
ヒューストンの我が家でも、郵便箱に郵便を取りにいくときは、そんな気分になる事もありますが、ジャンクメールという無差別にばらまかれた広告が半数以上入っています。何かが当たりましたというようなトリッキーな広告もあります。よく読んでいったり、連絡をすると、何かを買う必要があるという事が分かってくるのです。
すばらしい贈り物が突然送られてくるなんて、待っていてはいけないのです。
でもひとつだけ例外があるように思います。
聖書の中で、イエス様は「私の父の家には住まいがたくさんあって、あなた方のために場所を備えに行く」と言われました。そしてさらに、「場所を備えたら、あなた方を迎えに来る」といわれているのです。
一気にすばらしい家に住める事になる。そんなことがあるのでしょうか。あるとしてもどのようにすればそんなことが可能なのでしょう。
イエス様は聖書の中で、それに答えて言われます。「私が道である」
キリスト教では、イエス様自身が道だと言うことですが、分かったようで分からない表現ですね。空港に行くと、「動く歩道」というものがあって、それに乗れば、自分の飛行機に乗るゲートの近くまですっと早く行くことが出来ます。イエス様が道だと言われたのもそんな感じではないでしょうか。とにかくイエス様に寄り添っていけばいいということです。イエス様の備えてくださる家を得るには、どんなことがあっても教会に行かなければならないと規定するのいではなく、また毎日早く起きて聖書を読まなければならない、人に対して、腹を立ててはいけないというようなものではなく、クリスチャンとしてまず寄り添うことが大切なのです。これこそが、キリスト教のよいところなのではないでしょうか。普通「よいものを得るには、xxをする必要がある」というのが世の常識ですが、イエス様に感謝し、イエス様に寄り添う、イエス様との関わりの中からよいものが作られていくのです。
クリスチャンとして歩むという事について、これから、少しづつ皆様とともに考えていきたいと思います。
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