以前幕屋について、少し書いたことがありますが、今回はその第2弾として書いてみたいと思います。
旧約聖書の時代、つまり紀元前1500年ごろから紀元前500年くらいまで、幕屋というのは、唯一イスラエルの民が神とコミュニケーションを持つことが出来る場所でした。といっても、直接的なものではなかったのです。民は犠牲にささげる動物を幕屋に持ってきて祭司に渡し、祭司が民の代わりとして犠牲の動物を燃やし、そして神への働きかけを行うというものでした。
しかし、イエスキリストが現れて、これが変わるのです。イエス様が幕屋となられたのです。民はイエス様のところに、行きさえすれば、イエス様が後のことを行ってくださるのです。神様を知ろうと思ったら、イエス様のところに行けばよいのです。
イエス様がものすごいのは、幕屋になられたというだけでなく、祭司にもなられたということです。私たちの生きてきた人生を振り返ってみると、自分勝手に生きてきた、と思うところはありませんか。誤った選択をしたこともあったでしょう。あるいは人に引きずり回されてしまったということもあったかもしれません。でもどちらの場合にも神さまにしたがっていなかったと言うことは確かなのです。これを罪といいます。イエス様は私たちの罪を引き受けられ、私たちのために神に向かって弁護してくださるのです。
でもそれだけでもありません。イエス様は犠牲の獣にもなられたのです。私たちを創造されたのは神様であり、イエス様であるにもかかわらず、私たちの身勝手さを償うために、自ら犠牲の動物となって、死に赴かれたのです。
こんな方がいらっしゃるでしょうか。
このイエス様は、今イスラエルの民だけでなく、異邦人、つまりわれわれ日本人のためにも大きく手を広げて、私たちが神の元に戻ってくるのを待っていてくださるのです。私なんか、こんなに悪いことをしたのだから、神様にも目をかけてもらえないとか、思う必要はないのです。神の前にすべての人は平等なのです。神様の愛は私たちが創造するよりずっと深く大きいのです。一方キリストを信じる人は、偽善者だとか、よい子ちゃんだとか思う必要もありません。キリストを信じる者も自分の罪に悩み、些細なことでけんかをする、ただの人間です。ただイエス様の行ってくださった許しに心から感謝をし、毎日の生活を感謝を持って送ろうとしているのです。
こんなすばらしい、イエス様をもっと知ってみませんか?
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