2007年7月30日月曜日

祈りの力

 私たちは困ったとき、よく祈ります。
「病気が治りますように」だったり、
「経済的な危機から逃れられますように」というのもあるでしょうし、
「ヒューストンに新しい日本人教会ができますように」というのもあるかもしれません。、、、
そして病気が治ったら、祈りが通じたといって、喜びます。
しかし病気は治らないこともあります。経済的な問題が解決されないこともあります。
そんなとき人はどうして祈りが聞かれないのだ、とがっかりし、神様に怒ったり、本当に神はいるのかと疑ったりします。
あるいは「わたしが十分悔い改めていないからだ」とか、「神様はどうせ私なんか気にしてくださらないんだ」と、すねたりするかもしれません。私もこのように考えてしまうことが多いのです。でも教会の子供の日曜学校の教材を見て、このような考え方がちょっとずれているということに気がつきました。
祈りというのは、何のために行のかということなのです。

祈りというのは神とのコミュニケーションです。コミュニケーションですから、ボールを投げるというだけでなく、キャッチボール自体にも意味があるのです。ジャガイモをなげてもいいし、紙飛行機を飛ばし合ってもいいんです。
伝達する情報はたいしたものでなくても、コミュニケーションは成り立ちます。つまり結果がすべてではないのです。
本当の祈りというのは結果を知ることにこだわるものではありません。
病気が治るように祈った結果病気が治らなかったとしても、その祈りは無駄ではなかったのです。
祈りっていうのは、神と一緒の空間のなかにいるということ、神とやりとりをする事なんじゃないかな,と思います。

聖書には「永遠の命」ということがでてきますが、それは神を知る事だとも書かれています。
そして神を知るというのは神と触れ合うこと、神と親しくなるということです。
つまり祈りの中にこそ永遠の命の道が開かれているのです。
 
祈りのすばらしさはそれだけじゃないんです。
「とりなしの祈り」ということばを聞いた事,ありますか?
これは他の人のために祈ることです。
ほかの人をあなたとともに神の臨在の中に連れてくることなのです。
つまり私たちが中に入って、ほかの人に神と触れ合う機会を持ってもらうことです。
祈られた人はそのことに気がついていないかもしれません。でも私たちの祈りの中で、神の臨在の中にいた、ということが大切なんです。神は命ですから、すべての人の命の根本のところに関わっています。
結果をどうこう言うのではなく、神の御心にいろいろな人を連れて行こうではありませんか。そして後は神様に任せるのです。
 あなたが憎んでいる人がいたら、その人を神の臨在の中に連れてきて、愛の滝を受けさせてみたらどうでしょう。「そんな事できるか」なんて言わないでください。きっと自分自身もすっきりするはずです。一度だまされたと思ってやってみてください。
神は「生ける命の水である」という聖書のことばもあります。神には癒しの力があるのです。愛の滝は、癒しの滝です。命の水がその人の体中をくまなくびしょびしょにして、癒してくださるはずです。

祈りが、とてつもないものだという事を伝えたかったのですが、、、
今この時も、誰かが祈りの中で神の愛の滝を私たちに注いでくれているかもしれません。

ヒューストンの教会に通う日本人のつぶやきでした。

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