私たちは、毎日目が覚めると,昨日と同じ自分が目覚めたと想定する。
でも私たちはいつも一つだろうか。
目の前に大好きなケーキがあるとする。でも今は満腹だから,食べられない。
そしてそれをあきらめる。
しばらくすると、そんなに特別ではない,普通のパイが置かれたとする。
自分はそれを特に欲しいとは思っていないのに、手が動いて口に入れてしまう。あれっと思うと呑み込んでしまっていた。
そんな経験をしたことはないだろうか。
もしそんな経験があれば、ここで私の言っている事も理解していただけるかもしれない。私は実はひとつではないのではないか。
私たちは霊と肉で作られていると聖書には書かれている。ここで言う肉とは、肉体と呼ばれる物理的な実態だけを意味しない。むしろ物質としての肉体のコントロールをする何者かをさす。
霊はよいものを求める。でも肉は低級なものでも気にしない。何でも呑み込むのだ。
私たちは肉によって歩んではいけない、と聖書には書かれている。まさにそのとおりである。
貧しさというのもここに関係してくる。「貧しきものは幸いなり,神の国を見るからである。」
なぜ貧しいものが幸いなのか?心の貧しいもの、自分の罪深さを認識しているものが神の国を見られると言われている。まさにその通りなのだ。貧しくなると、肉の力が強くなる。おいしいものを求めようとしても買えない。とにかく何でも食べられるものを口に入れたくなる。そして食べた後でなぜこんなものを食べてしまったのかと,後悔する。
貧しいものはそのような自分に絶望する。落胆する。なぜこれほどまでに醜いのかという事にうんざりする。つまり自分の罪深さを見いだすのである。
肉の自分を見極めること。この地上に生きている以上、肉としての自分から決して開放されることはない。
いくら修行を積んでも、自分の努力によって、この境地から脱することは出来ない。
しかし神のみがそれを覆ってくれるのである。
ー米国テキサス州ヒューストン、イエスキリストを信じる人の群れ、 疲れた心と魂を癒す場所 __________________________________________________
2007年8月23日木曜日
2007年8月18日土曜日
パンとワインと私たちの身体
体をもっている。
体を与えられている。
私たちの命。
私たちの生活の中で、身体というのは、とても大きな部分です。
年を取ってくると、今まで見えていたものが見えなくなったり、今まで疲れ知らずで終えられたものが休まなければならなくなったり、いろいろと故障が出てきたりします。
いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、時として体は逆らいます。
でも体は,神が創造してくださったものであり、よきものなのです。
であるならば、体にも気を配ってあげる必要があります。そして神はその手段を聖書の中で示してくださっているのです。
神は言葉です.
ですから、私たちは神を、聖書の神の言葉を通して、知ります。でもそれだけでは十分ではないのです。
聖書の先頭にある創世記という書物には、私たちは神により息を吹きかけられて,生まれたとありますが、同時に塵から作られたとも、書かれています。私たちは少なくとも霊と体と言う二つのものからなっているのです。
神の言葉は私たちの霊に訴えます。しかし私たちの体に訴えるものも必要です。
言い換えれば、人間と完全にコミュニケーションをとるには、超越的な言葉による方法と,地上的なものによる方法の2つによる必要があるのです。
それが神との物質的な交流、すなわちコミュニオン(聖餐式(せいさんしき)なのです。
これはキリスト教ではサクラメント(秘跡)の一つとなっています。何を秘跡とするのか,というのは,キリスト教の宗派間で意見が分かれています。たとえばカソリックヤエピスコパリアンでは7つの秘跡を定めています。しかし他のプロテスタント諸教会の多くは、バプテスマ、聖餐式、この2つを秘跡としているところが多いのです。バプテスマは一生に一回というのが普通ですが、聖餐式の回数はいろいろと差があります。プロテスタントでも、毎週行うところもあれば、1年に2回しかしないところなどもあります。
しかし聖餐式というのは、霊と肉の葛藤に悩む私たちにとって、非常に大切な役割を担っているのです。神は本当の意味で生きているとは言えない私たち一人一人のために、自分の命を犠牲にし、本当の命を与えられたのです。罪のために永遠のさばきにあわなければいけない私たちのために、自ら血を流し、私たちに許しを与えられたのです。こんな祝福が他にあるでしょうか。
神は義なる方ですが、同時に愛のお方であり、与えるお方です。聖餐式は、私たちが神の前に出て、神から与えられる恵を受ける場なのです。これをしないと、自分だけで神を称えたつもりになっていて、神から受ける恵みに感謝しなくなる危険性があります。
イエス様の裂かれた体であるパンと、神が私たちを許すために、イエス様の流された血であるワインを大切にしていきたいと思います。
パンを食べ、ワインを受けることにより、私たちはこのすばらしい神が、今も生きていてくださることを身体の感覚として受けいれられるのです。食べる,飲むという一番基本的な生命行動を通して、私たちは神が今ここにいらっしゃって、私たちとともに生きていてくださるということを経験するのです。
聖餐式の時だけでなく、日常に食事をするときにも感謝することをさすれないようにしましょう。
「私たちの日ごとの糧を今日もおあたえください」という主の祈りの一節にもあるように、主は毎日与えられるお方です。
身体とパンとワイン、この3つは私たちの命にとって切っても切れないものなのです。
体を与えられている。
私たちの命。
私たちの生活の中で、身体というのは、とても大きな部分です。
年を取ってくると、今まで見えていたものが見えなくなったり、今まで疲れ知らずで終えられたものが休まなければならなくなったり、いろいろと故障が出てきたりします。
いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、時として体は逆らいます。
でも体は,神が創造してくださったものであり、よきものなのです。
であるならば、体にも気を配ってあげる必要があります。そして神はその手段を聖書の中で示してくださっているのです。
神は言葉です.
ですから、私たちは神を、聖書の神の言葉を通して、知ります。でもそれだけでは十分ではないのです。
聖書の先頭にある創世記という書物には、私たちは神により息を吹きかけられて,生まれたとありますが、同時に塵から作られたとも、書かれています。私たちは少なくとも霊と体と言う二つのものからなっているのです。
神の言葉は私たちの霊に訴えます。しかし私たちの体に訴えるものも必要です。
言い換えれば、人間と完全にコミュニケーションをとるには、超越的な言葉による方法と,地上的なものによる方法の2つによる必要があるのです。
それが神との物質的な交流、すなわちコミュニオン(聖餐式(せいさんしき)なのです。
これはキリスト教ではサクラメント(秘跡)の一つとなっています。何を秘跡とするのか,というのは,キリスト教の宗派間で意見が分かれています。たとえばカソリックヤエピスコパリアンでは7つの秘跡を定めています。しかし他のプロテスタント諸教会の多くは、バプテスマ、聖餐式、この2つを秘跡としているところが多いのです。バプテスマは一生に一回というのが普通ですが、聖餐式の回数はいろいろと差があります。プロテスタントでも、毎週行うところもあれば、1年に2回しかしないところなどもあります。
しかし聖餐式というのは、霊と肉の葛藤に悩む私たちにとって、非常に大切な役割を担っているのです。神は本当の意味で生きているとは言えない私たち一人一人のために、自分の命を犠牲にし、本当の命を与えられたのです。罪のために永遠のさばきにあわなければいけない私たちのために、自ら血を流し、私たちに許しを与えられたのです。こんな祝福が他にあるでしょうか。
神は義なる方ですが、同時に愛のお方であり、与えるお方です。聖餐式は、私たちが神の前に出て、神から与えられる恵を受ける場なのです。これをしないと、自分だけで神を称えたつもりになっていて、神から受ける恵みに感謝しなくなる危険性があります。
イエス様の裂かれた体であるパンと、神が私たちを許すために、イエス様の流された血であるワインを大切にしていきたいと思います。
パンを食べ、ワインを受けることにより、私たちはこのすばらしい神が、今も生きていてくださることを身体の感覚として受けいれられるのです。食べる,飲むという一番基本的な生命行動を通して、私たちは神が今ここにいらっしゃって、私たちとともに生きていてくださるということを経験するのです。
聖餐式の時だけでなく、日常に食事をするときにも感謝することをさすれないようにしましょう。
「私たちの日ごとの糧を今日もおあたえください」という主の祈りの一節にもあるように、主は毎日与えられるお方です。
身体とパンとワイン、この3つは私たちの命にとって切っても切れないものなのです。
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