体をもっている。
体を与えられている。
私たちの命。
私たちの生活の中で、身体というのは、とても大きな部分です。
年を取ってくると、今まで見えていたものが見えなくなったり、今まで疲れ知らずで終えられたものが休まなければならなくなったり、いろいろと故障が出てきたりします。
いくら聖書を読んでも、いくら祈っても、時として体は逆らいます。
でも体は,神が創造してくださったものであり、よきものなのです。
であるならば、体にも気を配ってあげる必要があります。そして神はその手段を聖書の中で示してくださっているのです。
神は言葉です.
ですから、私たちは神を、聖書の神の言葉を通して、知ります。でもそれだけでは十分ではないのです。
聖書の先頭にある創世記という書物には、私たちは神により息を吹きかけられて,生まれたとありますが、同時に塵から作られたとも、書かれています。私たちは少なくとも霊と体と言う二つのものからなっているのです。
神の言葉は私たちの霊に訴えます。しかし私たちの体に訴えるものも必要です。
言い換えれば、人間と完全にコミュニケーションをとるには、超越的な言葉による方法と,地上的なものによる方法の2つによる必要があるのです。
それが神との物質的な交流、すなわちコミュニオン(聖餐式(せいさんしき)なのです。
これはキリスト教ではサクラメント(秘跡)の一つとなっています。何を秘跡とするのか,というのは,キリスト教の宗派間で意見が分かれています。たとえばカソリックヤエピスコパリアンでは7つの秘跡を定めています。しかし他のプロテスタント諸教会の多くは、バプテスマ、聖餐式、この2つを秘跡としているところが多いのです。バプテスマは一生に一回というのが普通ですが、聖餐式の回数はいろいろと差があります。プロテスタントでも、毎週行うところもあれば、1年に2回しかしないところなどもあります。
しかし聖餐式というのは、霊と肉の葛藤に悩む私たちにとって、非常に大切な役割を担っているのです。神は本当の意味で生きているとは言えない私たち一人一人のために、自分の命を犠牲にし、本当の命を与えられたのです。罪のために永遠のさばきにあわなければいけない私たちのために、自ら血を流し、私たちに許しを与えられたのです。こんな祝福が他にあるでしょうか。
神は義なる方ですが、同時に愛のお方であり、与えるお方です。聖餐式は、私たちが神の前に出て、神から与えられる恵を受ける場なのです。これをしないと、自分だけで神を称えたつもりになっていて、神から受ける恵みに感謝しなくなる危険性があります。
イエス様の裂かれた体であるパンと、神が私たちを許すために、イエス様の流された血であるワインを大切にしていきたいと思います。
パンを食べ、ワインを受けることにより、私たちはこのすばらしい神が、今も生きていてくださることを身体の感覚として受けいれられるのです。食べる,飲むという一番基本的な生命行動を通して、私たちは神が今ここにいらっしゃって、私たちとともに生きていてくださるということを経験するのです。
聖餐式の時だけでなく、日常に食事をするときにも感謝することをさすれないようにしましょう。
「私たちの日ごとの糧を今日もおあたえください」という主の祈りの一節にもあるように、主は毎日与えられるお方です。
身体とパンとワイン、この3つは私たちの命にとって切っても切れないものなのです。
1 件のコメント:
これは或る宗教色の濃いブログで見つけました。 此処のブログではマザーテレサの生涯をどう受け入れているのでしょうかしら?
伝道は信徒の義務です。でも伝道の後で自ら十字架を荷うことを受け入れた新しい信徒の苦しみをどう説明したらよいかも伝道者の課題の一つですね。
マザー・テレサの苦悩
「マザー・テレサ」と呼ばれ、世界に親しまれていたカトリック教会修道女テレサは貧者の救済に一生を捧げ、ノーベル平和賞(1979年)を受賞し、死後は、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世の願いに基づき2003年に列福された。その修道女テレサが亡くなって今年9月5日で10年目を迎えるが、彼女の生前の書簡内容がこのほど明らかになった。
それによると、修道女テレサは「私はイエスを探すが見出せず、イエスの声を聞きたいが聞けない」「自分の中の神は空だ」「神は自分を望んでいない」といった苦悶を告白し、「孤独で暗闇の中に生きている」と嘆いている。
西側メディアは「テレザ、信仰への懐疑」などと、センセーショナルな見出しを付けて報じたばかりだ。ちなみに、彼女は生前、その書簡を燃やしてほしいと願っていたが、どのような経緯からか燃やされず、このように彼女の内面の声が明らかになったわけだ。
マザー・テレサの告白は、キリスト教の歴史では決して珍しいものではない。むしろ、程度の差こそあれ、神を信じる多くのキリスト者の信仰生活の中で見られる葛藤だ。新約聖書の聖人パウロの告白をご存知だろう。パウロは「わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して闘いをいどみ、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんという惨めな人間なのだろう」(ローマ人への手紙7章22節~24節)と告白している。“パウロの嘆き”と呼ばれる内容だ。
パウロの場合、自身の神への信仰の弱さを嘆いたわけだが、マザー・テレサの告白の場合、神、イエスを求めても答えを得ることが出来ない、“神の沈黙”への嘆きともいえる内容だ。
コルカタ(カラカッタ)で死に行く多くの貧者の姿に接し、テレサには「なぜ、神は彼らを見捨てるのか」「なぜ、全能な神は苦しむ人々を救わないのか」「どうしてこのように病気、貧困、紛争が絶えないのか」等の問い掛けがあったはずだ。それに対し、神、イエスは何も答えてくれない。このような状況下で神、イエスへのかすかな疑いが心の中で疼く。マザー・テレサは生涯、神への信頼と懐疑の間を揺れ動いていたのだろうか。
神が愛ならば、愛の神がなぜ、自身の息子、娘の病気、戦争、悲惨な状況に直接干渉して、解決しないのか。その「神の不在」を理由に、神から背を向けていった人々は過去、少なくなかったはずだ。
マザー・テレサの告白は、「神の不在」に関する背景説明が現代のキリスト教神学では致命的に欠落していること、結婚と家庭を放棄して修道院で神を求める信仰生活がもはや神の願いとは一致しなくなったこと、等を端的に示している。
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