私たちは、毎日目が覚めると,昨日と同じ自分が目覚めたと想定する。
でも私たちはいつも一つだろうか。
目の前に大好きなケーキがあるとする。でも今は満腹だから,食べられない。
そしてそれをあきらめる。
しばらくすると、そんなに特別ではない,普通のパイが置かれたとする。
自分はそれを特に欲しいとは思っていないのに、手が動いて口に入れてしまう。あれっと思うと呑み込んでしまっていた。
そんな経験をしたことはないだろうか。
もしそんな経験があれば、ここで私の言っている事も理解していただけるかもしれない。私は実はひとつではないのではないか。
私たちは霊と肉で作られていると聖書には書かれている。ここで言う肉とは、肉体と呼ばれる物理的な実態だけを意味しない。むしろ物質としての肉体のコントロールをする何者かをさす。
霊はよいものを求める。でも肉は低級なものでも気にしない。何でも呑み込むのだ。
私たちは肉によって歩んではいけない、と聖書には書かれている。まさにそのとおりである。
貧しさというのもここに関係してくる。「貧しきものは幸いなり,神の国を見るからである。」
なぜ貧しいものが幸いなのか?心の貧しいもの、自分の罪深さを認識しているものが神の国を見られると言われている。まさにその通りなのだ。貧しくなると、肉の力が強くなる。おいしいものを求めようとしても買えない。とにかく何でも食べられるものを口に入れたくなる。そして食べた後でなぜこんなものを食べてしまったのかと,後悔する。
貧しいものはそのような自分に絶望する。落胆する。なぜこれほどまでに醜いのかという事にうんざりする。つまり自分の罪深さを見いだすのである。
肉の自分を見極めること。この地上に生きている以上、肉としての自分から決して開放されることはない。
いくら修行を積んでも、自分の努力によって、この境地から脱することは出来ない。
しかし神のみがそれを覆ってくれるのである。
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