私の仕事場は6階にある。最近、毎朝6階まで階段を上るようにしている。
もちろん運動不足を少しでも解消しようと言う魂胆からであるが、
6階につくと、息が荒くなり、しばらく休んでしまうのは悲しいところだ。
休みついでに、「階段を上る」という行動を考えてみた。
階段をあがるというのは、人間の基本的な行動原理になっているのではないだろうか。
6階まで上がると、達成感がある。この達成感はそれなりに励みになる。
マラソンでもそう。1マイル走ったら、2マイルに挑戦できる気がしてくる。どこまでいけるか試してみたくなる。
毎日勉強をする。少しわかってきたら、もっと進める。少しでも自分がわかるようになりたいから。
毎日仕事をする、少しでも売り上げを伸ばしたいから。
聖書を読む、少しでも洞察を得たいから
毎週,教会に行く。すこしでも神様に近づきたいから。
少しでも上に上がるために、毎日を、毎月を、毎年を過ごす。これが出来なくて、がっかりすることも多いけれど、これは人間の基本的行動原理。
でもこれは自分中心の考え方。
これをすれば、こうなる。これをしないと、ああなってしまう。、、、
英語で言えば、If, Thenの世界。
あくまでも人間が最初に来ているのだ。
ここに神を入れてはいけない。神は人間に操作されるお方ではないからだ。
逆に私たちは神の似姿に作られたのであるから、神を知るときには、神から学ぶべきだ。
聖書に書かれている神は、あくまでも最初にアクションを起こしてくださっている。
アダムとイブが禁じられていた木の実を食べて隠れていたとき、探しにきてくださったのは神であった。
人間が何とか上に上がろうとしては、ずるっとずっこけてしまっているときに。赤ん坊として、すばらしい贈り物を持って、降りてきてくださったのは神だった。
私たちが何か評価に値することをしたから、神様が来てくださったのではない。
それとは逆だ。本当なら怒られてもおかしくはない。
ひどいことをしたのだから。
でも神は許してくださる。
神の愛だ。
神の愛のアクションがあるから、私たちはそれを受け入れるだけでいい。
神の愛の招きがあるから、私たちはそれに応じるだけでよい。
そう考えると日常の私たちの世界はがらっと変わってくる。
デートの待ち合わせ場所で愛する人と待ち合わせをしている時のように、聖書という場所で、神様が待っていてくださるから、私たちはそこに会いにいくのだ。
「教会に行く」のではなく、「神様が交流をしようと待っていらっしゃる教会に行く」、、、
英語で言えば、Because , thereforeの世界。
神様が来てくださるから、私も行くのだ。
神様がひっぱって下さるから、私も上に上るのだ。
「受け身」というのは、この世的に言うとマイナスのイメージを持っている。
しかし神様と私たちの関係を考えたとき、この「受け身」はきわめて、正しい。
神の愛、率直にただ受け取るしかない。
感謝をもって
いつも生きていたい、、、
つくづく思う。
ー米国テキサス州ヒューストン、イエスキリストを信じる人の群れ、 疲れた心と魂を癒す場所 __________________________________________________
2007年6月26日火曜日
Evan the Almighty
米国では”Evan The Almighty”という映画が先週封切られました。
これは旧約聖書のノアの箱舟を基にしたコメディー映画ですが、"Bruce The Almighty"という映画の続編だそうです。
テレビの宣伝を見る限りでは、動物がたくさん出てきていましたが、実際の映画はどうでしょうか。
私は見ようと思っていたのですが、まだ見ていません。
すでに見られた方は、コメントをいただけると幸いです。
これは旧約聖書のノアの箱舟を基にしたコメディー映画ですが、"Bruce The Almighty"という映画の続編だそうです。
テレビの宣伝を見る限りでは、動物がたくさん出てきていましたが、実際の映画はどうでしょうか。
私は見ようと思っていたのですが、まだ見ていません。
すでに見られた方は、コメントをいただけると幸いです。
2007年6月9日土曜日
幕屋について(2)
以前幕屋について、少し書いたことがありますが、今回はその第2弾として書いてみたいと思います。
旧約聖書の時代、つまり紀元前1500年ごろから紀元前500年くらいまで、幕屋というのは、唯一イスラエルの民が神とコミュニケーションを持つことが出来る場所でした。といっても、直接的なものではなかったのです。民は犠牲にささげる動物を幕屋に持ってきて祭司に渡し、祭司が民の代わりとして犠牲の動物を燃やし、そして神への働きかけを行うというものでした。
しかし、イエスキリストが現れて、これが変わるのです。イエス様が幕屋となられたのです。民はイエス様のところに、行きさえすれば、イエス様が後のことを行ってくださるのです。神様を知ろうと思ったら、イエス様のところに行けばよいのです。
イエス様がものすごいのは、幕屋になられたというだけでなく、祭司にもなられたということです。私たちの生きてきた人生を振り返ってみると、自分勝手に生きてきた、と思うところはありませんか。誤った選択をしたこともあったでしょう。あるいは人に引きずり回されてしまったということもあったかもしれません。でもどちらの場合にも神さまにしたがっていなかったと言うことは確かなのです。これを罪といいます。イエス様は私たちの罪を引き受けられ、私たちのために神に向かって弁護してくださるのです。
でもそれだけでもありません。イエス様は犠牲の獣にもなられたのです。私たちを創造されたのは神様であり、イエス様であるにもかかわらず、私たちの身勝手さを償うために、自ら犠牲の動物となって、死に赴かれたのです。
こんな方がいらっしゃるでしょうか。
このイエス様は、今イスラエルの民だけでなく、異邦人、つまりわれわれ日本人のためにも大きく手を広げて、私たちが神の元に戻ってくるのを待っていてくださるのです。私なんか、こんなに悪いことをしたのだから、神様にも目をかけてもらえないとか、思う必要はないのです。神の前にすべての人は平等なのです。神様の愛は私たちが創造するよりずっと深く大きいのです。一方キリストを信じる人は、偽善者だとか、よい子ちゃんだとか思う必要もありません。キリストを信じる者も自分の罪に悩み、些細なことでけんかをする、ただの人間です。ただイエス様の行ってくださった許しに心から感謝をし、毎日の生活を感謝を持って送ろうとしているのです。
こんなすばらしい、イエス様をもっと知ってみませんか?
旧約聖書の時代、つまり紀元前1500年ごろから紀元前500年くらいまで、幕屋というのは、唯一イスラエルの民が神とコミュニケーションを持つことが出来る場所でした。といっても、直接的なものではなかったのです。民は犠牲にささげる動物を幕屋に持ってきて祭司に渡し、祭司が民の代わりとして犠牲の動物を燃やし、そして神への働きかけを行うというものでした。
しかし、イエスキリストが現れて、これが変わるのです。イエス様が幕屋となられたのです。民はイエス様のところに、行きさえすれば、イエス様が後のことを行ってくださるのです。神様を知ろうと思ったら、イエス様のところに行けばよいのです。
イエス様がものすごいのは、幕屋になられたというだけでなく、祭司にもなられたということです。私たちの生きてきた人生を振り返ってみると、自分勝手に生きてきた、と思うところはありませんか。誤った選択をしたこともあったでしょう。あるいは人に引きずり回されてしまったということもあったかもしれません。でもどちらの場合にも神さまにしたがっていなかったと言うことは確かなのです。これを罪といいます。イエス様は私たちの罪を引き受けられ、私たちのために神に向かって弁護してくださるのです。
でもそれだけでもありません。イエス様は犠牲の獣にもなられたのです。私たちを創造されたのは神様であり、イエス様であるにもかかわらず、私たちの身勝手さを償うために、自ら犠牲の動物となって、死に赴かれたのです。
こんな方がいらっしゃるでしょうか。
このイエス様は、今イスラエルの民だけでなく、異邦人、つまりわれわれ日本人のためにも大きく手を広げて、私たちが神の元に戻ってくるのを待っていてくださるのです。私なんか、こんなに悪いことをしたのだから、神様にも目をかけてもらえないとか、思う必要はないのです。神の前にすべての人は平等なのです。神様の愛は私たちが創造するよりずっと深く大きいのです。一方キリストを信じる人は、偽善者だとか、よい子ちゃんだとか思う必要もありません。キリストを信じる者も自分の罪に悩み、些細なことでけんかをする、ただの人間です。ただイエス様の行ってくださった許しに心から感謝をし、毎日の生活を感謝を持って送ろうとしているのです。
こんなすばらしい、イエス様をもっと知ってみませんか?
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