2009年12月12日土曜日

10 k レース

10Kレースに参加してきました。
ヒューストンにしては極めてまれな雪が前日に降ったため、開催前のぎりぎりまで、開催か中止かわからず、やきもきしていましたが、何とか実施ということになり、会場に着きましたが、大変寒く、参加者はぎりぎりまで車の中で待機。レース後も大変寒くて、すこし風邪をひいてしまいました。

 でもレースが終わって、Finishと書いてあるゲートを潜り抜けるのは最高でした。達成感でしょうか。今回の記録は58分25秒と凡庸なものでしたが、今までの自分のベストですので、うれしいです。さらにトップランナーの記録を見ると、チャレンジ心がわいてきます。もっと練習して、タイムをあげたい、そしてより長距離を走れるようにしたい、そう思います。

 今回のレースを経験して、いろいろなことを学びました。
まず心理面。レースでは、一人で練習しているときと違って、回りに人が走っているので、どうしてもその影響を受けてしまいます。特に今回は私のすぐ前に大きな男の選手が走っていて、その人がよくとまって歩くのです。でも抜けるかなと思って走っていくと、その人が走り出します。そして走るときは非常に速いので、もう抜けません。そんなことを繰り返しているうちに、もう先へ行ってもらいました。これは今後の課題です。このようなことは克服する方法があるはずです。
 次に、ランニングの練習については少なくとも2次元で考えていく必要があることも知りました。まず長距離を走る練習をすることで、持久力がつき、長く走れるようになります。今回は自分で練習していたコースが実際に距離を測ったわけではなかったので、実際より短い距離だったことが後でわかりました。今回はずっと今まで練習してきた距離より長いということで、落ち着きませんでした。もう少し正確に距離を測ったコースを使って、もう少し長く距離を走る練習をしておくことが大切だと思います。また途中で歩く人が少なかったことにも驚きました。私の今までの練習では結構途中で歩いていたので、とまどいました。私もまわりにひきずられて歩く時間を減らし、その結果よい結果が出たのでよかったのですが、裏返すと、歩く時間を減らして走れたということです。これも持久力ですので、今後の練習では走り続ける練習をする必要があります。
 でもそれだけでは十分ではありません。距離に加えて、スピードの訓練が必要です。ゆっくり走ってばかりいると、そのスピードに体が慣れて、いざというときスピードが出ません。今回も、最後のラストスパートは練習していたこともあって、スピードをあげることはできましたが、途中ではスピードを上げることができませんでした。どこでもスピードを上げたいときにあげられるようにしておくことが大切です。よく言われるのはインターバルトレーニングの日を設けて、早く走る、ゆっくり走る、を繰り返しておけということです。スピードを上げるにはこれが必要です。

以上ですが、思っていたより奥が深いスポーツだということが少しづつわかってきたような気がします。 

2009年11月28日土曜日

米国の医療保険制度について

オバマ大統領が選挙中から公約していた米国医療改革法案が議論を呼びながらも、11月7日下院を通過した。10年間にわたって1兆1千億ドルの経費がかかるが、これらは保険の加入者増、増税やMedicareのカットで実現される。上院ではいまだに難航しているが、そこで出てきたものと一本化して、法制化されることになりそうで、政府提供の保険を設定するかどうかで議論の最中である。

医療保険に入っていない人の数が国民の6人に1人にも及ぶ中、国民のほとんどに保険をもたせる、また病気になって困っている人に保険での治療を提供するという仕組み作りは、1993年クリントン政権下で失敗しているだけに、米国社会のひずみを直す大きな前進であるといえよう。

一方で、いろいろな政治団体が反対の声を上げ、今まで見えなかったものが見えてくるものもある。たとえば、米国のキリスト教保守主義グループの反応は興味深い。
彼らは、今回の保険制度改革に反対の声を上げた(USA Today 8/26/09)。彼らの言い分は、不法移民が医療を受けられるようになってしまう。堕胎をはじめとする医療行為が保険によって堂々と行われるようになってしまう。費用が莫大になり、そこまで負担できないというものである。かけがいのない命をおもんじるがゆえに、堕胎を許せないというのは筋が通っているが、保険制度改革自体はそれ以外の部分も大きい。米国で保険に入れない人たちは、重病になったときも、治療が受けられずに、死を待つしかないという現状は、是正されるべきである。
今回下院を通過した法案も、堕胎に関しては堕胎反対論者の主張が通ったものとなっている。

いずれにせよ両院で一本化されたときにどのような形になっているのか、今後も目が離せないテーマである。

2009年11月22日日曜日

LPGAツアー

ヒューストン郊外のRichmondでLPGA女子プロゴルフトーナメントが進行中である。
といっても、雨のために、2ラウンド目の途中で試合が中断されている。
天気予報によれば明日はもう大丈夫とのことなので、明日の日曜日は再開できるだろう。

ゴルフというのは、少しの雨であれば実施されるが、ひどくなるとやはり実施できないのだ。このような雨や悪天候のとき、どう対応するかで選手のメンタルが試される。
宮里藍選手に注目してみてきたが、彼女は何度順延の案内を受けても、心の持ち方を切り替えるようにしている。やはり一流の選手である。

試合の前に行われる練習ラウンド、練習なので、見ている人も少なく、選手の表情もリラックスした様子。グリーンでは何回も場所を変えてパターを打って、グリーンの様子をチェックしている。アプローチショット。カップのごく近くまで一発で寄せてくる。そしてそれを支える集中力。自分の道を懸命に歩いている人に特有のエネルギーを感じる。

選手のインタビューを見る機会もあった。ミシェル・ウイー、先週のトーナメントで優勝したばかり。スタンフォードで勉強している長身の彼女は、日本語も勉強していて、結構うまい。ゴルフだけでなく、インターナショナルビジネスでも成功するだろう。ただ、彼女はその後足首の故障がひどくなって、棄権した。

女子プロゴルフツアー、また一つ一生懸命になっている人たちの世界を見る事が出来て、感謝である。

2009年11月15日日曜日

YELLという純粋な歌

一度聞くと、なぜかもう一度聴きたくなる曲があります。
さらに聴くと、切なくなる曲があります。
もっと聴くと、エネルギーをもらえる曲があります。

「いきものがかり」というグループの「YELL」という歌は、そんな曲です。

2009年の全国学校音楽コンクール中学生の部の課題曲になったので、多くの中学生が歌っています。
歌詞もメロディーも凝っています。

歌詞は、現実を受け止め、一人で立つということ、周りにまぎれているのをやめるということ、そのことのつらさを認めつつ、本当の自分を実現するには、ありのままの弱さを受け止め、それでも一人で歩きだすことが必要だということを歌っています。解放、そして希望を与えてくれる歌詞です。

メロディーは、既成の枠にとらわれないメロディーになっているとともに、ひとつのテーマが長く、パターンを捕まえにくい構成になっています。

また歌唱の構成も、合唱を意識して書かれただけあって、男声と女声それぞれの声部の有機的なやり取りが、劇的に仕上がっています。

プロモーションビデオのクリップをYoutubeでどうぞ。

http://www.youtube.com/watch?v=tSnEsGc5FFY

 ーYELLー いきものがかり
作詞:水野良樹 作曲:水野良樹


,,,

翼はあるのに飛べずにいるんだ
一人になるのが怖くてつらくて
やさしい陽だまりに肩寄せる日々を
超えて
僕は孤独な夢へと歩く
,,,

2009年10月19日月曜日

夜明けの風

雪解けの水音
柔らかな風が窓の隙間から吹き込む

もがき続けた夜の影が薄れていく。
愛は寛容にして忍耐なり

窓に映る自分
弱さの中
心なしか暖かくなる
見えないものに守られていることを確信

肺の動きとともに口元で風が起こる
与えられた命を確信

使命を臨み
感謝のことばを
口元に
見えないものの大きさを確信

2009年10月5日月曜日

中流幻想

長妻昭厚生労働相が10月5日、日本も国として貧困率の調査を行い、格差社会の是正を目指し貧困率縮小の目標を定めるということを発表した。

貧困率というのは国民を所得順に並べ中央値の半分以下の人口がどのくらいいるかという比率である。OECDが発表した2008年の日本の所得水準の中央値は448万円なので、その半分の224万円以下の所得の人たちの割合ということになる。
米国の貧困率は13.7%、この数字は1997年以降最高の数字で、貧困者が増加していることを示している。ところが日本の貧困率は13.5%と先進諸国の中で米国についで2番目に高いのである。

よく耳にする失業率はどうであろうか。米国9月の失業率は9.8%となった。これは26年ぶりの高い数値。
この数字と日本の失業率とを比較すると、日本の失業率は5.5%なので、日本はまだ低いといえよう。

失業率が低いにもかかわらず、貧困率が高いということは、低賃金労働者が多いということに他ならない。
一億層中流社会という事象は潰え去った。
なぜこのようなことになったのか。
エントロピーの法則。
砂上の楼閣は消え去る定めにある。

新しい時代が始まる。

2009年9月25日金曜日

頑固な心

真実を求めるもの
エレミヤ書の5章、これは劇的な章です。神の心の動きを読み取ってください。

5:1「エルサレムの巷を歩き、見て知るがよい。誰か公義を行い、真実を求めるものが見つかったら、私はエルサレムを許そう。」
主はエレミヤにこのように言われます。これは神の「許そう」という意思が伝わってくる言葉です。

しかしエレミヤはそれが信じられません。あなたの目は真実に向けられていないのでしょうか。
真実を見ようとされていないのでしょうか?そんな人はいませんよ、というのです。
主を恐れない人々が、ぜんぜん平気でぴんぴんとしているのを見ているからです。
でもこれらの貧しい、おろかな人たちだから、神の事がわからないのだと思って、身分の高い人のところを見てみても、その人たちもだめなのです。
 そうです。義人は一人もいないのです。
神がロトのいるソドムについて アブラハムに言われた言葉を覚えていますか。(創世記18:23-33)でもソドムは滅ぼされましたね。またローマ書ではパウロが「義人はいない、一人もいない」と強調しています。

そこで、神は人々の様子を交えながら、来るべき裁きについて話されます。
 まず、神は裁きは避けられないといっています。背信が激しいので、とうてい許すことはできないと。
 イスラエルはぶどうにたとえられますので、そのつるを除けといっています。
でも、ここに少し希望があります。10節ことごとく滅ぼしてはならないといっています。
全滅にはされません。主のあわれみがここにあります。誰も認められるべき人はいないのですが、神は誰かは残しておかれるのです。

それでも、人々の傲慢さはひどいものです。
 「災いは私たちを襲わない、と人々は公言してはばからないのです。
 神の言葉を代弁すべき預言者たちでさえも、厳しいことは言わないので、恐れるに足りない。
彼らは風のようだといわれています。
 神の怒りは燃え上がります。私の言葉を火とし、民を薪とする。神の言葉によって、人が燃やし尽くされてしまうのです。
 でも、主は憐れみを与えてくださります。ことごとくは滅ぼされないのです。具体的にはユダがバビロンにより、侵略され、ユダの有力者がバビロンに連れて行かれ、そこで、奴隷の生活をさせられるようになるmバビロン捕囚のことがここに予言されています。
なぜかといわれれば、「本当の神を捨て、にせものの神々に仕えたように、あなた方の国ではない土地で、他国人に仕えるようになる」 当然の帰結です。

人々は、主を恐れないのか、わたしの前におののかないのです。かたくなで、逆らう心があるのです。
人々が主を恐れないこと、それが問題です。
 さらに事態を悪くするのは、悪い者たちがいて、人々に欺きのわなを仕掛けていることです。神など恐れる必要は無いと欺く人が多くいるのです。人々はその欺きを受け入れ、豊かになり、悪事を平気で行い、孤児を裁いて、幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しないのです。ここに社会的公正が行われていないことが非難されています。主はこれらを黙認しておられません。公正が行われていない。真実が求められていない。これがエルサレムの罪です。

 当時エルサレムという中央都市は地方の人々を搾取していたといわれています。エルサレムに住んでいない人々はいろいろなものを奪われていたのです。社会的な不正です。
 また真実ということについてさらに言えば、偽りの平和を予言するものが多くいました。
当時はバビロンが覇権を握るのは時間の問題でした。そのためそれぞれの隣国とバビロンの間で戦いが起こることは避けられない状況だったのです。偽りの預言者はその事実を認めず、安易に平和を語っていたのです。平和がないのに、平和を語る。それは偽りであり、真実をゆがめていることになります。
真実をゆがめるということは、神を神と認めない、人を人と認めないということにつながります。
イスラエルの人たちは、自分のねがいがかなうことだけに夢中になり、神様がいつも愛し、守ってくださっていることを忘れていました。そして真実を聴こうとしませんでした。

 では神が求めておられる真実とは何でしょう.科学の言う真理とはちょっと違う、外見からはわからないものです。
神を認め、神のメッセージをしっかりとうけとめること。人を人と認め、敬うこと
何より自分の小ささを認め、そして主がそんな私を顧みてくださっているということを受け取ることです。これこそ、人間の真実、本当のあるべき姿なのです。

 真実を求めるというのは口先だけのものであってはなりません。神は生きているということを言っても、それが本物になっていないということもあるのです。

 もっとも理解するのが難しいものは、私たち自身であるといった哲学者がいます。私たちは自分たちの本当の姿をなかなか見る事が出来ません。それは勇気が無いからかもしれません。でも本当に神様に心を向けて、自分を預けるならば、神がそれを見せてくださるのです。私たち一人ではできないことも神がともにいてくだされば、私たちにはできるのです。

 ヨハネの福音書16:4に「私は真理である」というイエス様の言葉があります。
イエス様は、真理なのです。真理は物事ではなく人なのです。
イエス様は私たちが聞きたくないことをいうかもしれませんが、それは真理なのです。私たちの知らない深い愛を教えてくださるかもしれません。それも真理なのです。イエス様とともに生きることは、真理とともに生きること、真理の中に生きることです。

 エレミヤの5章で言われているように、人はまったく真理を求めていません。しかしイエス様は罪の無いお方、真理を求めるお方、いえ真理そのものであられます。
そのイエス様が、この地上に来てくださり、私たちを招いてくださっているのです。イエス様によってのみ、私たちの不真実が許されるのです。

 神との契約を破り続ける人間に対し、神はこのエレミヤ書の5章のように、裁かれるといわれます。当然です。私たちが契約を守っていないからです。
でも神は私たちをお見捨てにならないのです。イエス様を送ってくださったのです。神は、自分ではどうしようもない、真理など無い、真理を求めもしない人間をそのまま救ってくださる、これがまた神の真理なのです。

 私たちも私たちの遣わされているそれぞれの場所で、真実を抱えて生きることができるよう祈りましょう。

2009年8月20日木曜日

むなしいもの

「むなしいものに従っていって、むなしいものとなってしまったのか」

旧約聖書にエレミヤという預言者がいます。エレミアは紀元前7世紀にイスラエルの人です。当時のイスラエルは北王国と南王国とに分裂した後、北王国がアッシリアに征服され、南王国もその存在が危うくなっていた時期でした。

このイスラエルに向かって、神が言われたのが冒頭の言葉です。「むなしいものにしたがっていって、むなしいものになってしまったのか」と神は言われます。
「むなしい」ということばは風とか息という意味のことばです。風も息も、ぱっと吹けばそれで無くなってしまうものです。同じ聖書の「伝道者の書」という書の冒頭で、「空の空、すべては空」というくだりがありますが、この「空」ということばは、まさにここで使われている「むなしい」というこのことばと同じです

私たちの生活の中で、「むなしい」ものとは何でしょうか。

いろいろと思いつきますが、お金というのもあるかもしれません。
お金は私たちの生活の中の重要な一部です。しかしさっとなくなってしまうものであることからいえば、、むなしいものといえるでしょう。
ある程度はないと、生活そのものができないことは確かです。ただここで言うある程度というのはかなり主観的なもので、周囲との比較から導かれることが多いのです。
ですから問題は従うか従わないかです。必要であることは必要なのですが、それでも従わないことはできるのです。お金が足りないことをすべての原因にすることや、お金をためることを最高の目標にするということなどはお金に従っていることになるでしょう。

むなしいものの他の例を考えると、「自分たちの勝手な心あるいは感情」はどうでしょう。
私たちの心は、さっと来て、さっと過ぎ去っていきます。
でも私たちはこの心によって行動を起こしたり、起こさなかったりすることがあります。
このような感情に従っていると、私たち自身も、むなしい、一時的なもので終わってしまうのです。

むなしいものではなく、神に従いなさい、というのがここでのメッセージです。
神は、変わりません。そして私たちと個人的な関わりを持ってくれる方です。
神を優先順位の一番において、まずは神とのかかわりを楽しみましょう。

2009年8月6日木曜日

神の召し

旧約聖書には預言者という人たちの書いたものがかなりの割合で出ています。預言者とは神の言葉を伝える人です。予言というと、2012に天変地異が起こるというように未来のことを言い当てる人だと思われがちですが、そうではなく、ここでは預言という言葉が示しているように神の言葉を預かる人、すなわち神が言われた事を伝え、神の感情を伝えるのがその役割です。

この預言者というのはイスラエルでは、2つの時期に多く輩出されました。
イスラエルは独自の王を持つようになり、ダビデ王やソロモン王という有名な王がでてきますが、ソロモン王の後、イスラエルは南北に分裂します。そして北のイスラエルという国と南のユダという国に分かれます。
預言者が輩出される第一の時代は北のイスラエルの国がアッシリアに滅ぼされる前であり、2回目は南のユダの国がバビロンに滅ぼされる前です。一回目の時期は紀元前約750年、イザヤやミカなどの預言者が出ました。
この2回目の時期は紀元前で言うと650BCのあたり、今回取り上げるエレミヤやエゼキエルという預言者が出ています。

預言者の伝える言葉というのは、励まし、慰めの言葉もありますが、多くの場合、神が怒ったり、悲しんだりしているということを伝えなくてはならないのです。当然人々はそういうことは聞きたくありません。ですから、とてもつらく、苦しい仕事でした。


エレミヤは、神が人々を見て、悲しんでいるということ、災難がやってくるということを伝えるという使命を受けた人です。イスラエルの人々は神にそむいて、神でないものを拝んだり、自分の力だけに頼っていたのです。エレミヤは悲しみの予言者と呼ばれています。
 エレミヤはベンジャミンの土地、つまりイスラエルの近辺の祭司の息子として生まれました。
祭司というのは神に仕える人。人の罪を神のもとに持っていって、犠牲をささげ、許しを請う人です。祭司は民の言葉を神に伝える人ですが、預言者は反対に神の言葉を民に伝える人なので、反対の役割になります。

旧約聖書、エレミヤ書の1章の2節に ユダの王ヨシヤの時代に主のことばがあった、とかかれています。ヨシヤという王(641-609まで即位)はユダの王ですが、神に従っていた王として有名です。しかしヨシヤに続く王はみな神を無視し。神からは慣れていく王でした。エレミヤはこの下降の時代に生を受けたのです。

エレミヤは13-20歳のときに神の言葉を聞きました。
しかしエレミヤは、若いからその命令は受けられませんと答えます。ここで言う「若い」というのは年齢が若いということではなく、経験や知識が無いということを含んでいます。

でも神はそんなことを理由に断るなと切り返します。
神はそれに対して、次のような2つのことを伝えられます。

1)私がともにいるからと言われます。
ともにいてくださることほど、力つよいことはないのではないでしょうか。
人が悲しみの中にいるとき、どんな言葉も上滑りしてしまうという事があります。何を言って言いかわからないときもあります。でもそんなときでも、逃げることなく、ともにいてくれるということは、頼もしいことです。
2)そして主はエレミヤに触れられ、言葉を与えられます。
 神が触ってくださるのです。そして神の言葉を授けられたのです。自分で何かを作り出して言う必要は無いのです。神に示された言葉を言いさえすればよいのです。どう語ってよいかわからないというエレミヤの言葉に対しての行動です。

能力が無いことは、神の仕事を拒む理由にはならないのです。また逆に力があるから仕事を任せられるのでもないのです。
神は、ただともにいてくださるだけでなく、必要なことも与えてくださるのです。

エレミヤは神の召しを受けました。
私たちはどうでしょうか。教会というのは、神に召しだされた人の集まりです。
エレミヤが神に預言者として召しだされたように私たち一人一人にも召しがあるのです。

神は、私たち一人一人に「主はともにいる」という約束とともに、かけがいの無い使命を与えられていることを覚えましょう。

2009年8月2日日曜日

愛餐会

去る7月25日にまり子さんのお宅で、それぞれ一品持ち寄りの愛晩会を持ちました。

ご覧ください。





2009年7月25日土曜日

走法

走るときに発見したことを素人なりにご紹介します。

1、体のそれぞれの部分は助け合える。
  走っていると、疲労がたまってきます。しかし疲労は体全体から来てているとは限りません。足のひざだけが痛いとき、かかとが痛いとき、腿が痛いとき、あるいは呼吸が苦しいときなど、それぞれの体の部分で負荷が大きくなりすぎるとアラームが上がってくるのです。ですから、そういうときは休ませてあげることが必要ですが、全体的には休む必要のないこともあるのです。たとえば左足のかかとが痛いときは、左足のかかとに負荷がかかるような走り方をやめて、右足でカバーするように走るのです。あるいはふくらはぎが痛いときは、ふくらはぎに負担がかかりすぎているので、大腿筋をもう少し使って走るようにフォームを変えてみるのです。あるいは土踏まずの辺りが傷んできたら、親指の拇指球でしっかりと着地するように心がけるのです。これらにより、それぞれの部分の過剰な付加は解消されます。
体の部分はお互いに独立していて、助け合うことができるのです。
私たちの身体はまことにすばらしい組織をもっているのです。


2、デザインされたとおりにお使いください
  マラソンの一流選手の走りを見ていると、すべるように走っていることに驚かされます。この優雅さは何か地上のものでないものを彷彿とさせます。素人はなかなかそうは走れません。しかしそのように心がけることはできるし、またそれによりかかとなどを保護することにもなるのです。

走っているときのかかとは着地するとき、体重の3倍の衝撃力を受けているといいます。またひざにも大きな負荷がかかります。足を痛めやすいのは当然です。ではそれを防ぐためにどうしたらよいでしょうか。
すべるような走法を身につけることはこのような負荷を最小限に抑える有効な方法だといえます。

すべるように走るには、大腿筋、大臀筋を最大限に使って、ストライドを大きくとり、そして足を高く上げすぎないように、お尻から足を動かすのです。体の上下動を最小限に抑えることにより、衝撃力を少なくでき、しかもスピードを上げられます。ただしストライドを大きくとりすぎると、呼吸もその分苦しくなりますので、適度なストライドにするのがよいでしょう。

体はそれぞれの部分を有効に使って動かすように作られているのです。一部分に負担をかけすぎない走り方というのはそのもともとのデザインにあった走り方になるのです。体のデザインにあった走り方をすると、きれいに見えます。
人間の体はうまく作られています。

2009年7月6日月曜日

ウインブルドン男子決勝2009

2009年7月5日、英国ウインブルドンにて、全英オープンテニストーナメントの男子決勝戦が行われ、ロジャーフェデラーがアンディーロディックに競り勝ちました。
第5セットまでもつれこみ、タイブレークなしのその第5セットもそれぞれがサービスゲームをキープして譲らず、結局第5セットを16-14でフェデラーがとり、優勝となりました。
試合時間は4時間8分でした。

ロディックは持ち前の高速サービスでサービスゲームをキープするだけでなく、リターンでもすばらしい粘りを見せ、随所にスーパーショットを見せてくれました。フェデラーはオールラウンドなうまさに加え、今回はロディックの27本のほぼ倍となる50本のサービスエースを決めるなど、それぞれが自分のレベルを一段上げるすばらしい試合でした。

最後の5セットはまさに集中力をどこまで維持できるかの戦いだったように思います。最後にロディックが目をこするシーンが増え、ミスが少し重なって勝負がつきましたが、それまでのロディックの集中力はとてもすばらしいものでした。フェデラーが試合後のインタビューで「あと数時間は続くかと思った」と言っていました。
4時間もこれだけのレベルの集中力を維持するのは並大抵のことではありません。二人とも疲労困憊の状態だったと思います。その状態で、これだけのプレーを見せられる。そのポイントはミスを続けないということです。フェデラーもたくさんのミスを犯しましたが、それを続けずに立て直せたというところが勝因でしょう。

さらにロディックの言葉が印象的です。「いつかは私の名前がウインブルドンの勝者として記録されることを願っている」と。この上を目指す態度、これが原動力です。ロディックの悔しさがよく伝わってきます。

この試合を通じで、2人の偉大なテニスプレーヤーの生き様を垣間見ることができたように思います。1)上を目指し、目的のために練習はもちろん、食事から睡眠にわたるまで毎日、レベルを上げるべく努力を継続すること、2)そしてミスを恐れることなく、ミスをしたら、直ちに立て直すということ、そんなことを学びました。手に汗握るこの試合を見られたことに感謝します。

2009年7月5日日曜日

イエスは今もともにいてくださる

ポイント オブ グレースというグループの歌に,
"Jesus Will Still Be There"というものがあります。

Things change, plans fail
you look for love for grander scale.
Storms rise, hopes fade
And you place your bet on another day
When the going gets tough
when the ride too rough
when you are just not sure enough

Jesus will still be there
His love will never change
sure as the steady rain
Jesus will still be there
...

そうなのです。
イエスはいつも私たちとともにいてくださるのです。
私たちは一人ではありません。
私たちが、もうどうしようもないというような状況に陥ったときでも、イエスはともにいてくださるのです。
そして私たちに一番必要なもの、愛を与えてくださるのです。
イエスが常に私たちとともにいて、私たちを愛してくださっている。
私たちのためにすべてを投げ捨てて下さろうとしている。
これ以上のことを私たちは望めるでしょうか。

2009年7月3日金曜日

ヨセフー夢見る者ー許すもの

ヨセフという人が聖書にでてきます。ヤコブとラケルの子供ですが、その家庭は大変複雑でありました。
母が4人、しかしヤコブが最も愛したのはラケルであり、その最初の子がヨセフでした。したがってヨセフだけ特別の洋服を作ってもらうなど、溺愛されていたのです。
 しかしヨセフはヨセフで、溺愛されているのをよいことに、兄弟の悪いうわさをみつけては、父に告げ口するということもするようないわゆる「よいこ」だったのです。

 彼はまた夢見るものでもありました。そして自分の見た夢をみなに言いふらします。しかもその夢が周りのものによって自分が礼賛されるという夢でした。当然周りの兄弟からねたまれ、いじめられます。あるとき、とうとうあやうく殺害されかけ、エジプトに奴隷として売りとばされるという羽目に落ちいりました。 

兄弟に嫌われて、売り飛ばされてしまったら、どんな気持ちがするでしょう。
自分の不幸を嘆いても不思議はないでしょう。でも、、、文句は言いません。
主が彼とともにおられ、、主が彼のすることすべてを成功させてくださります。
主はヨセフのゆえにこのエジプト人の家を祝福された。
そこで侍従地長にだんだんとりたてられ、すべてを任されるまでになります。

しかし侍従長の妻の誘惑を受けます
しかしそれを断ったために、強姦未遂の罪で、今度は牢獄に入れられることになるのです。
やっと運が向いてきたと思ったら、悪いことを断ったがために、また奈落の底です。

それでもヨセフは自分をさげすむ意識から自分を守ることができました。
39:21 主はヨセフとともにおられたからです。
そこで、また牢獄の管理を任されることになります。

何年もの牢獄生活の後、王が夢を見て、その説きあかしのために、ようやく外に出されます。
王の夢を説き、それを実行するべくエジプトの司となります。

 カナンの飢饉でヨセフの兄弟はエジプトに食料を買いに行きます。エジプトで総理大臣となっていたヨセフは自分の身分を明かすことなく。きびしくスパイではないかと問い詰めながら、食料を与えます。
兄弟との話の中で、少しづつ兄弟は自分たちのしたことを悔い改めていきます。
そしてとうとうヨセフは自分の身分を打ち明けるとともに、許しを与えるのです。その理由はこれです。

 「あなた方は私に悪を計りましたが、神はそれをよい事のための計らいとなさいました。
それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためです。」

兄たちの悪事を神によって許し、兄のこどもたちを養うことを約束します。
ヨセフは兄弟たちを許します。
ヨセフの兄弟は、謝ります。でも本当に許されたということを実感できません。
本当に悔い改めていなかったからかもしれません。

私たちも似たところがあるのではないでしょうか。
悔い改めはしたつもりになっています。でももしかするとわかっていないかもしれません。

でもそんなわたしたちのために、イエス様は十字架にかかって、死なれたのです。そして「彼らを許してください、彼らは何もわかっていないのです。」(ルカ23:24)といわれました。

神に許された私たちはどう生きますか
悪いことをした人を恨んでいきますか
かかわりを持たないで、一人で生きますか

2009年6月28日日曜日

出会い、そして格闘

ヤコブ ー イサクとレベッカに生まれた双子の一人。
生まれた順番はエサウが最初で、続いてヤコブ。
ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきたので、ヤコブとなずけられた.
「かかとをつかむもの」「人を出し抜くもの」。

聖書の創世記に出てくるヤコブは、この名前が示すように、人をだますことを気にすることなく、目的のためには手段を選ばない、冷酷な男。

この双子が生まれるとき、神のお告げが与えられていた。
「一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」と。
レベカは少なくともこの神の言葉を聞いていた。エサウがヤコブに仕えるようになることを知っていた。

この二人が成長し、あるときエサウは腹をすかせて帰ってきた。猟に出る人、エサウに対し、家で料理する人、ヤコブ。
 エサウはスープをくれるなら長子の権利を譲り渡すと、ヤコブに口頭で約束してしまう。
エサウの欲望に負ける性格が見て取れるが、逆にヤコブの長子の権利へのしつこさもみてとれる.. ヤコブは機会を見逃さない。大変頭がいい男なのである。

イサクは年を取り、世代交代の儀式を行おうとする。神のお告げを無視して、エサウを祝福しようとする。ひそかにエサウを呼んで、猟をしてきて、食べさせてくれと頼むが、それを聞いていたレベッカが策略を働かせ、ヤコブにエサウのふりをさせ、イサクから長子の祝福を受ける。

祝福がヤコブに対して行われてしまったことを知ったエサウは激怒して、ヤコブを殺すことをたくらむ。
それを知ったレベカはヤコブを逃がすことを考えるが、ただ逃がすのではなく、ちゃんとした理由をつける。嫁探し、、
ヤコブはレベカの提案を受けて、ベルシェバからイサクの故郷であるハランまで、嫁探しに行く。

1、べテルでの出会い
しかし実際はエサウからの逃亡旅行。その途中、ヤコブは石を枕にして寝る。エサウから早く逃げたい、本当にまずいことをしたという思い、良心の呵責に責めさいなまれる。
石を枕にして寝るという表現は、英語やフランス語のことわざ「There is no pillow so soft as a clear conscience.」(よき良心は、やわらかい枕である。)を考えてみると、よくわかる。ヤコブの良心は大変痛んでいた。だから、枕は本当はやわらかかったとしても、石のように硬く感じられたに違いない。

ヤコブはそこで夢を見る。
はしごが天と地に立てかけられていて、天使たちが上がったり下がったりしている。
これはこのとき、神とヤコブの間に道が開かれたことを示している。

しかし夢だけではない。主が傍らに立っていて、ヤコブに語られるのだ。
―アブラハムイサクの神である。
―この地をあなたとあなたの子孫に与えよう
―子孫は多くなり、すべての種族はあなたによって祝福される
―私はあなたとともにある
―どこに行ってもあなたを守り、この地に連れ戻そう
―約束を果たすまではあなたを捨てない

翌朝、恐れ多い経験をしたことを自覚する。枕にした石をとって、石の柱とし、油を注いだ。そしてそこをべテル(神の家)と呼んだ。

なんと不思議な約束だろう。人を欺いて逃亡中の人間に対し、その罪をとがめることばはどこにもない。
神はヤコブの前に現れてくださり、力づけてくれるのだ。ありえない、、、
でも自分のことを振り返ってみよ。数え切れない罪を犯しているとき、神はそれを非難するために現れただろうか。いや私を救ってくれる神、守ってくださる神として現れたのではないか。
恵みなのである。

またヤコブはここで一人、神と一対一で出合ったのだ。しかも神から訪れてくださったのだ。
今まで神というのは父の神、母の神ではあっても、自分の神ではなかった。ここで、初めてヤコブは自分の神と出会う。神からの恵みである。

主がともにいてくださったのに、私は知らなかった。
このような経験はないだろうか
ともにいてくださり、守ってくださり、必要なものを与えてくださり、父の家に帰らせてくださる、、、
神は私たちと一対一で会ってくださる。


2、ペヌエルでの格闘 
その後ヤコブはハランの地に行き、レイチェルを見つけ、結婚しようとするが、素直には結婚させてもらえない。レイチェルの乳、ラバンは,ヤコブに7年間彼のもとで働くことを要求する。ヤコブはその要求を呑み、7年間働く、しかし7年たってみると、レイチェルの姉リアと結婚させられてしまう。そしてレイチェルと結婚するにはもう7年働かなければならなくなる。さらにラバンの家畜の面倒を見るために6年。通算20年ヤコブはラバンに仕えることになる。

ヤコブは兄が弟に仕えるという神の言葉を聞いてそれがすぐに実現することを期待した。しかしヤコブはラバンに20年間仕えることになった。
ヤコブは長子の権利を得るためにエサウを欺いた。しかしヤコブはレイチェルとの結婚のとき、ラバンに欺かれた。
ヤコブは神の時間を待とうとしなかった。しかしヤコブはラバンの時を待たされることになった。
ヤコブはいろいろな罪を犯してきた。ラバンのもとでその罪の刈り取りをさせられるのである。

そして20年後、ヤコブは富むようになっていく。ラバンとの関係も悪くなってきたころ、神のお告げが再びあって、故郷に帰れといわれる。でもヤコブはちゃんとあいさつをすることなく、ラバンに隠れて、逃げ帰る。あいかわらずのヤコブ。

ラバンから解放されたのはいいが、故郷には、ヤコブの命を狙うエサウがいる
まずヤコブは使者を送って、カナンの地に帰ることを伝え、様子を見る。
しかし400人の兵士を率いてエサウが出てきたことを知り、愕然となる。
ヤコブはヤボクの渡しのところでエサウへの贈り物を先に送り、妻子を先に渡すが、自分だけ残る。ここは死海とガリラヤ湖の間にある渡し場。ここをわたると約束の土地カナンの地に入ることになる境界の場所。
エサウと和解できるのかという恐怖、そして今まで自分のしてきた欺き、その呵責がヤコブをとどまらせる。彼はここで、誰かと格闘する。それはイエスキリスト。
この格闘を経ないとカナンの地、約束された土地に入れない。
格闘は一晩中続く。
ヤコブに勝てないのを知って、その人はヤコブの腿の番をはずし、ヤコブはびっこを引く人となる。
自分で何でもやってきた。ヤコブはここで、自分では何でもできない体となる。

そしてその人はいう。私を去らせよ、夜が明けるから
ヤコブはしかし、言う。「祝福してくださるまでは去らせません。」
それを聞いて、その人はあなたの名はなんだ。という。
ヤコブは自分はヤコブだと答える
すると、神はお前はもうヤコブではない。「イスラエル」だというのである。
「神によって統治される人」、イスラエル。そして祝福を受ける。
求めに求めていた祝福を神から受ける。
神からの祝福、それは私たちに希望を与え、生きる力を与えてくれる。

ヤコブはイエスキリストにびっこにされて、つえなしには歩けなくなった、
しかしその痛みによって、神にいつも寄り頼むことを学ばされる。
「私の弱さのうちに主が働かれる」のである。

ヤコブはその場所をペヌエル(神の顔)と名づけた。神の顔を一対一で見たからである。

神はただ言葉をかけてくださるだけでなく、私たちと格闘してくださるのだ。それだけ私たちの悩み、苦しみに関わってくださるのだ。それだけ親しく接してくださるのだ。

2009年6月19日金曜日

主は備えてくださる

イサクという人が聖書に出てくる。
アブラハムとサラの間に生まれた最初の息子、神によって予言され、アブラハム100歳のときに生まれた、待ちに待った待望の世継ぎ。

イサクは幼少をベエルシェバという土地周辺で過ごした。今で言うヘブロンの南20マイルの砂漠地帯。まだまだ決まった棲家がなく、転々としていた。
あるとき、アブラハムは神からの言葉を聞く。「モリヤの山に行き、イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」!
アブラハムは翌朝早く出発する。モリヤはエルサレムのことなので、ベエルシェバからだと約40マイル、3日間の旅になる。3日間、アブラハムの苦悩はいかばかりだっただろうか。神はイサクを通して、祝福を与えられると約束されたのだ。しかしその神がイサクを全焼のいけにえとしてささげよといわれる。

イサクは、父アブラハムに、全焼のいけにえはどこにあるのですかとたずねる。アブラハムは「神ご自身が供えてくださる」と答える。そして二人は一緒に歩き続ける。聖書に書かれている記述はそれだけ。
イサクは、この出来事をどのように受け止めたのだろうか。
父のその言葉を信じ、自らの死をも気にしなかったのだろうか。

アブラハムがイサクを祭壇に縛りつけたとき、イサクは自らが全焼のいけにえとなることを悟った。でも神がいけにえを備えてくださるという言葉は信じ続けた。そしてイサクは、あやめられることを受け止めた。この神の御心に対する静かな受容、死をも超えた信仰こそ、イサクのすごいところだ。そして父なる神の声がして、イサクは助けられ、代わりの羊が与えられることで、アブラハムとイサクは、主は備えられる、ということを体験する。

なぜモリヤの山に行かなければならなかったのか。アブラハムがイサクをささげたモリヤの場所は実は後にイエスが十字架についた場所でもある。神はその伏せんとしてこの場所を選ばれたのだ。

ここからイサクとイエスの共通点がいろいろと見えてくる。
イサクは祭壇にしばりつけられるが、淡々と父のなすがままになっていたと思われる。時にイサク16歳。これはイエスキリストが静かに十字架につく姿にぴったりと重なってくるではないか。イエスは十字架につくとき、抵抗したりしていない。またイエスは十字架につく直前、ゲッセマネの薗で祈っているとき、自分の願いではなく、父の思いがなりますようにと祈る。
 さらに、アブラハムはイサクを犠牲にささげようとするその寸前で、代わりの犠牲の羊が与えられる。イサクはそのとき死んだも同然。一回死んだと考えられるイサクはそのとき、新しい命を与えられた。それと同じように、父なる神は、一人子イエスを犠牲にささげられた。このとき、代わりの犠牲の羊は現れなかった。しかし3日後にその犠牲の羊自身(イエス)が蘇り、新しい命が与えられた。
主は備えられる。

この出来事の後、アブラハムはイサクの妻を探す作業に入る。近くに住んでいるカナン人から探してはいけない、あくまでも自分の生まれ故郷の女から選ばせる必要がある。
神に祈り、ユーフラテス川上流のナホルの街でレベッカという娘を探し当て、結婚させる。
この間、イサクはまったく表舞台に出てこない。
ただ選ばれた娘を受け入れるだけ。ここにもイサクの従順な性格がうかがえる。
このとき、イサク40歳。
主は備えられる。

結婚したイサクとレベッカはベエルラハイロイという場所に住む。ここはベルシェバよりさらに南の砂漠地帯。
そこにまた飢饉が起こる。父アブラハムは飢饉がおきたとき、豊かなエジプトに逃げた。しかしイサクには神の言葉が与えられる。
「エジプトには行くな、この地に滞在していなさい。
 私はおまえとともにいて、おまえを祝福しよう」と。
アブラハムに与えられた約束とほとんど同じだが、違うのは、これらの約束がイサクに与えられるのは、アブラハムが信仰を守ったからだという点にある。アブラハムのゆえにイサクは祝福を受けるのだ。神はいわれた。アブラハムを通してすべての国民は祝福を受けると。

イサクは南のエジプトに行く代わりに、北へ向かい、ゲラルのペリシテ人のところに行く。しかしイサクも父アブラハムと同様、自分の命を守るため、妻を妹だと偽ってしまう。
しかし神の恵みゆえにレベッカは姦淫の罪を犯すことなく、イサクもうそをついた罪を問われない。神がともにいたからである。神がともにいる人間は恐れられる。 

その後、主の祝福によって、イサクは大変豊かになる。ペリシテ人のねたみを買い、井戸を埋められてしまう。砂漠生活の者にとって、井戸が埋められるというのは生死を左右する一大事だ。しかしイサクは争うこともなく、別のところに行き、井戸を掘り、水の出る井戸を見つける。そしてまたその井戸をめぐって争いが起きると、その場所を去り、別の井戸を掘る、水が出る、、
「主は備えられる」ということを信じていたからである。

このようなイサクはまさに柔和なもの、平和を求めるものだということができる。このような生き方は現代では尊重されない。しかし神はこれこそ、祝福される生き方だといわれる。
マタイの福音書5:5でイエス様は言われる。「柔和なものは幸いである。そのものは地を相続するからである」と。

イサクはアブラハムへの神の約束によって、豊かな生活をすることができた。アブラハムと同様間違いを犯したが、神は約束のゆえに、イサクを祝福してくださった。

イサクを通して私たちが教えられることは、1)私たちキリスト者はどんな失敗をしようと、私たちにイエスを伝えてくれた先輩、そしてその先輩、最終的にはアブラハムにされた約束によって、神の祝福を受けることができているということだ。私たちが祝福を受けられるのは私たちが合格点を取ったからではない。神の祝福、恵みに感謝しようではないか。そして謙虚になろう。2)そしてイサクに見られる柔和の徳を磨けということだ。主は備えられるということを徹底的に信じるなら、可能になるということを、イサクは示してくれている。柔和は御霊の賜物のひとつであるから、神によって与えられるものであるが、私たちはそれを願うべきなのだ。

イサクの一生は180年、
「主は備えられる」のである。

2009年6月6日土曜日

神の応答

困ったとき、神にたずねてみましょう。
そして神の応答を待つのです。
神は不思議な方法でその存在を示してくださることでしょう。
でも注意してください。自分で判断して行動を起こす前に聞くことが大切です。

私は仕事の関係上、よく昼に仮眠をとります。それまで何も祈らないで寝たときは必ず寝坊していたので、あるとき寝る前に、何時に起こしてくださいと祈ったことがありました。
すると、そのときはしっかりと起きるべき時間に目が覚めたのです。これは自分で無意識に暗示したのだと解釈することもできるでしょう。

しかしその後しばらくして、こんなこともありました。
自分にはどうしようもないことがあって、でも神様に見られている気もして、とにかく神に助けてくださいと祈りました。
そのあと、私はうつらうつらとしてしまいました。
すると、何かとても親しい人の微笑が私の右の後ろのほうで聞こえた・見えたような気がして、目が覚めました。夢とは違う不思議な感覚でした。
実際に見ていなくても、人のまなざしを感じることがあります。
このとき、神は私を見まもっていてくださっていることをさりげなく知らせてくださったのです。

不思議です。
神は私が自由に行動することを許されています。でも私が神の御心に沿って行動することを望んでおられます。そして、私がそのようになることを辛抱強く待っていてくださるのです。

でも神の応答は、自分の期待することとは違うこともあります。
あるとき、何時に起こしてくださいと願ったものの、予定より遅く、でもがんばれば何とかなる時間に目が覚めました。何だ、願ったとおりに起こしてくれないではないか。やはり偶然だったのかなどと早とちりしないでください。
それは、「お前の願いは確かに聞いたから起こしたけれど、今日は休んだほうがよい」というメッセージかもしれないのです。私の体調は確かにそのときよくありませんでした。がんばって起きて活動をしていたら、その後寝込んでいたかもしれませんでした。つまり神は私の願いを聞きながらも、長期的に見て、最善のことをしてくださるのです。神は私にこのメッセージを理解してほしかったのです。

「神の前を歩きなさい」ということばが聖書に出てきますが、私たちは、まさに神の見ておられる前を歩いているのです。

もっともっと神の応答を聞きたいと思います。

2009年5月31日日曜日

<<一枚の写真>>



1枚の写真がある。

今、切り取られたばかりの写真

この瞬間にしか取れないものだけれど、

流れ行く時を超えたものとつながっている。

究極の存在、神。ここに神の視点を見ることができる

今を生きるとは

この神の視点を持って生きること

2009年5月24日日曜日

走ること

 走る

  ただ走る

   足のだるさ

    わき腹の痛み
  
  汗の中で流体となる

            体幹の感覚が鋭敏になる

                命、身体を持っていることに祝福あれ      

                  主に少しでも近づける。

                     体を使って走ること、

                         主を賛美するひとつの方法

2009年5月16日土曜日

アブラムの旅(2)

ハオンの部屋へようこそ。

Twila Parisという人がこんな歌詞の曲を作っています。

”You have been faithful when I have been faithless,
Oh unending Fountain of Grace
For ever giving when I have been selfish,
Oh unending Fountain of Grace”
                        'Fountain Of Grace'

アブラハムもfaithless, selfishでありました。
私たちはみなそうです。
そして神はいつもfaithfulなのです。

創世記15章から20章までの大きな流れをみてみると、それがよくわかります。

15章 
アブラムはメソポタミアの軍隊を追い払い、ロトを救出し、ソドムの王の褒章を断り、神を讃えるメルキゼデクにささげモノをしました。
しかしその後不安が襲ってきます。どんな不安でしょうか
追い払った国々がまた立て直して帰ってくるのではないか、ということかもしれません。跡継ぎがないことから来る将来の不安かもしれません。
そんなアブラムに、主の言葉が現れます。
「恐れることはない、私はあなたの盾である。あなたの受け取る報いは大きい。」
私たちの人生をちょっと考えてみると、不安との戦いというのが大きな要素になってくるといえないでしょうか。明日の仕事の不安、老後の不安、子供の将来の不安、、、、
でも神は常に恐れるなといってくださるのです。

なぜ私たちが恐れなくてよいかというと、神が私たちの盾となってくださるからなのです。
盾となってくださるということは、飛んでくる矢を自ら受けてくださるのです。
これほど心強い言葉があるでしょうか

そしてあなたの受ける報いは大きいといわれます。
アブラムは言います。どんな報いをあたえてくださるのですか?
神はそれに答えて、アブラム自身の子供が生まれ、そこからアブラムの子孫が星の数ほどになるといわれるのです。
アブラムはとっさに、不可能だと思ったでしょう。
でもその神を信じたのです。
神はそれを知って、義とされました。これでよいのです。

神とともに歩もうとするものが、不安に襲われるとき、神のしてくださることはこれなのです。
1)恐れる必要はない
2)将来の希望、ビジョンが与えられる
どのように今の問題が解決されるかということは後回しなのです。
私たちに求められているのは、恐れないこと、ビジョンを持ち続けることです。

16章
神から約束を与えられまたものの、あいかわらず、子供は与えられません。私たちはそんなとき、どうするでしょう。何かしなければいけないのではないかと思うはずです。サライもそう思ったのです。サライは女奴隷のハガルに子供を生ませることを提案します。ハガルというのはアブラムがエジプトに行ったとき手に入れたエジプト人の奴隷です。
アブラムに子供が生まれるという神からの示しがあったので、アブラムとハガルの子供でもよいと考えたのでしょう。社会的には受け入れられる方法です。
でもこれは神の考えられた方法ではありませんでした。私たちは待つことが苦手なので、自分だけで解決方法を考えてしまいがちですが、これは神が望まれることではありません。あくまでも神に聞くということが大切なのです。

身ごもったハガルは、子供のできないサライを見下げるようになります。それに耐えられないサライはハガルにつらく当たります。サライはつらさに耐えかねて家を出て行きます。エジプトに帰ろうと思ったのでしょう。しかしシェルというところに来たとき、主がハガルに現れるのです。シェルというのはカナンとエジプトの間にある町です。そしてアブラムとサライの元へ戻り、身を低くして仕えなさいと告げるとともに、身ごもっている子供を祝福しよう、イシュマエルとなづけるように、といわれるのです。イシュマエルというのは、(神は聞かれる)という意味の言葉です。ハガルは,神をエルロイ(神は私の苦しみを見られる)と呼びます。そうなのです。神は私たちの声を聞き、苦しみを見ていてくださるのです。私たちが苦しみの中で逃げようと思ったとき(ハガルといういのは逃亡という意味を持っています)、壁にぶつかったとき(シェルというのは壁という意味です)神は私たちの前に現れてくださるのです。そして逃げるなという力づけの言葉とともに、祝福の約束をしてくださるのです。なんと慰められることでしょう。

17章
イシュマエルが生まれて、13年、神は再びアブラムに現れます。
  今度は自らをGod almightyとして、現れるのです。これはエル シャダイという神の名前です。そして
  「私の前を歩き、まったき人となれ」といわれます。
  どのようにしたら、まったきひとになれるのでしょう。神の前を歩くことによってです。
  神の前を歩くというのは、ちょうどお母さんが小さな子供から目を話さないよう自分の前においておくように、親の見えるところにいるということなのです。神から隠れないということなのです。神はいつも私たちを見ていてくださるのです。
  そしてアブラムに言われます。
  名前を変えなさい あなたの名前はアブラムではない、アブラハムとなる。そしてサライもサラと名前を変えるように言われます。
   名前は人をあらわすと言いますが、それはそのとおりで、私たちの名前を変えるということは私たちも心機一転、新しくなりなさいということなのです。
  神はその後、契約のしるしとして割礼をしなさいといわれます。
  割礼というのは、男性性器のの包皮を切り取ることです。これは当然、人間の側に痛みを伴います。この意味するところは古い自分を切り捨てるということ、自分の努力や失敗、そして罪からなる自分を捨てること、心をきれいにすることです。まさに新しくなることが要求されているのです。
神は15章で、動物を二つに切り裂かせ、その間を通るという形で、アブラムと子孫の恵みと土地の付与に関する契約を結ばれました。今回はアブラムに自分の肉体を切らせるという形でこの契約を結ぶのです。

  そしてサラが子供を生むのだ、と言われます。アブラハムはせせら笑います。そんなばかな、、、
でもアブラムは神の言われたように割礼を行いました。疑ってもいいのです。言われたことを行うことが大切なのです。  

18章 
しばらくすると、神が人の姿を取って、アブラハムとサラを訪問しに来てくれます。
アブラハムはこの客人が只者でないことを知り、至れり尽くせりのもてなしをします。
食事を共にするというのは親しい交わりをするということです。神は親しい関係を築くことを望んでおられるのです。
  そしてサラが聞いていることを確認したうえで、来年の今頃サラが子供を生むのだ、といわれます。  サラもおもわず、そんなばかなと思います。でも、神は言われます。なぜ神にできないことがあると思うのか。 サラは驚きました。心の中で思っただけなのに、自分の心を言い当てられたからです。そしておそらく、ここで、サラも神を信じたことでしょう。
        
  そして神はさらに、アブラムにソドムの滅ぼしの話をします。なぜソドムを滅ぼすことを話したのでしょうか。それはすべての国がアブラハムにより祝福されることになることを見越し、罪のきわめて重いソドムはその前に滅ぼされなければならないこと、またアブラムが自分の子孫に正しいことをするように教えるとき、ソドムの罪の話をし、神は裁かれるときには厳しく裁く方であることを教えさせる必要があるからです。

私たちはどうでしょう。神にできないことはないと心の底から信じられますか?
そして神は本当に裁く方であると信じられますか。


19章 
み使いはソドムを訪問して、ロトに会います。ロトもアブラハムと同様、この客が只者でないことを知り、もてなします。ロトの家に泊まります。しかしソドムの人々はロトのところに客が来たのを知り、なんと性交渉をさせろとおしかけるのです。ロトは客人を守るために、代わりに自分の娘を差し出そうという、とんでもないことを言うのです。でも町の人たちは収まりません。なんという町でしょう。ものすごく乱れた世界です。町の人たちもひどいですが、ロトもひどいのです。
    ロトはソドムで裁き司のように振舞っていましたが、このような環境の中にいると、常識も崩れてくるのでしょう。それでもソドムの人からは疎まれていました。
客人はソドムを滅ぼすことをロトに告げ、逃げるように言います。ロトは自分の娘婿に、逃げるように言いますが、冗談を言っていると思われてしまいます。ロトが信用されていなかったということがわかります。またロトも本気で言っていなかったのかもしれません。なぜなら、その後また客人が逃げるように催促したときも、ロトはなかなか逃げないからです。そして無理に手を引かれて逃げるときになっても、山には逃げたくない。小さな町(ツオアル)に行かせてくれと願うのです。
   神はそんなロトの願いを聞き入れ、ツオアルに逃げさせ、ソドムとゴモラの町を硫黄の火で燃やし尽くされます。逃げる途中、ロトの妻は振り返ってはいけないといわれていたにもかかわらず、町に未練があって、振り返ったため、塩の柱にされてしまいます。
   ロトと、不たちの娘は助かりました。しかし硫黄の火を目撃した後、ロトは恐れが支配するようになり、皮肉なことに山に逃げ込むのです。
  悲惨な結末を防止するために、どうしたらよかったのでしょう。中途半端な信仰が問われているのです。

 私たちの信仰はどうでしょうか。ロトのように、この世も神の国も両方取ろうという中途半端な信仰になっていないでしょうか。

20  アブラハムはゲラルという国で、またサラを自分の妹だといいます。
    二人とも、サラから子孫が生まれると聞いたのに、、、
    エジプトで行った同じうそをまたつくのです。
    でもアブラハムを罰することなく、神がゲラルの王に現れて、サラを不思議な方法で救い出します。

   ここまで見てわかるように、おろかな人間です。
でも神は私たちを信じ続けてくださいます。


  

2009年5月11日月曜日

とわにさんざめく 合唱


「さくら」というタイトルの歌には、よい歌がたくさんある。森山直太郎、こぶくろなど、、、日本人にとって、さくらというのは霊感が湧き出る対象なのだろう。

私は森山直太郎の歌が一番好きであるが、最近Youtubeでその合唱バージョンを聞いて、合唱のすばらしさに改めて感動した。

まず音のハーモニーの美しさ。
不協和音ではないが、半音違う声をハーモニーさせるだけで、そこからかもし出される音の空間は、まさに異次元の世界である。そしてそれが次の瞬間には違う音となり、ダイナミックな重さのないダンスが展開される。

さらに、合唱とメロディーとのダイナミックな関係。
たいていは控えめに、曲に厚さを与える役割を演じているが、時にメロディーを超えた大きな展開をして合唱の存在をアピールする。これがまた太陽の黒点のプロミネンスのようで、味わいがある。
シャーロット チャーチという歌手がクリスマスの賛美歌を集めたCDがあったのを思い出す。
その中で彼女は合唱がメロディーを歌う中で、自らメロディーを越えて自由に歌う絶妙な賛美を展開していた。

そして、歌詞も、上質だ。「輝ける君の未来を願う本当の言葉」が「今なら言えるだろうか」と自問しているのである。本当のものを求めるこの謙虚さ、、、本当のものはどこにあるのか。 私たちはやはり本当のモノを求めたい。

聖書にこんなことばがある。
「私が道であり、真理であり、命なのです」
真理というもの、ほんとうのもの、永遠に変わらないものは、イエスキリストにこそあると言っているのである。


いずれにせよ、この合唱は音の世界と、言葉の世界があいまって、未来への希望、神の世界をかもし出している。合唱版「桜」は、迷える子羊を導く羊飼いの笛よろしく、私たちをさんざめく日差しをあびる、清き牧場に導いてくれるのである。

ぜひお試しあれ。

2009年5月9日土曜日

アブラムの旅

私たちは何を信じて生きているのでしょうか。本当に大切なものをつかんでいるでしょうか。
創世記に書かれているアブラムの旅はそんな私たちに、貴重な助言を与えてくれます。

 アブラハムーユダヤ教徒の父と仰がれ、イスラム教での偉大なる預言者としてあがめられ、そしてキリスト教徒の間では信仰の父と呼ばれる彼は、以前アブラムという名前のメソポタミアの住人でした。

 彼の父テラは、アブラムとおいのロト、アブラムの妻サライを連れて、当時非常に栄えていたウルを出て、カナンの地に向います。
しかし途中のハランという地に、いついてしまい、カナンへの旅は挫折します。

しかしテラが亡くなり、アブラムが75歳になったとき、神はアブラムに現れます。
「あなたの生まれ故郷、父の家を出て、私の示す土地に行きなさい」と。
アブラムはこの言葉に従い、カナンの地に向かいます。
引越しをするときのことを考えて見ましょう。どのようなところなのか、物価水準はどのくらいなのか、文化的にはどうなのか、私たちはいろいろと調査して、引越しを決定します。
でもカナンの地がどのようになっているか、豊かな土地なのか、すでに住んでいる人がいるのか、彼には皆目見当がつきません。ただ神がここに行きなさいといわれただけなのです。
アブラムは神のこの言葉を握り締め、カナンの土地に到着します。
神の言葉を聞いたとき、「何かが与えられるなら、それを信じよう」というのではないのです。私たちに最初に与えられるのは言葉だけなのです。しかしその言葉を信じて行動を起こすとき、神の祝福が与えられるのです。

カナンのシェケムという土地に着いたアブラムですが、そこにはカナン人がしっかりと住んでいました。アブラムはいかに落胆したことでしょう。

でも神様は私たちを見放されはしません。すぐ後に神は自らを現わされます。
そして「この地をあなたの子孫に与える」と言われるのです。
「間違ってはいなかった。正しい場所に来ていたのだ」、とほっとする反面、「私の子孫に与えられるのであって、私に与えられるのではないのとか」とがっかりもしたでしょう。
それでも周りにいるカナン人のことを考えれば、そんなに簡単にこの地が自分のものとなることはありえないと納得がいったことでしょう。彼は祭壇を築き、神に祈りをささげます。

神は私たちが信仰に基づいて神に従ったとき、自らを示してくださいます。神が自らを示してくださらないと悩んでいるのであれば、まず神に従ってみましょう。

 さて、アブラムはそこからべテルとアイの間の丘に移動し、テントを張り、周りの人にあかしをし、説教を始めるのです。
宣教活動の開始です。ここでべテルというのは「神の家」という意味があり、アイというのは「廃墟」という意味です。アブラムは神以外は廃墟と考えることができるようになり、神の家に集中するのです。ところが、そこから南のネゲブへ向かいます。ネゲブというのは「乾燥」という意味の言葉で、砂漠地帯です。
そして飢饉に襲われます。私たちも、神を信じてしばらくすると、乾燥状態に陥ることがあります。
生きているのか生きていないのかわからない状態、潤いのない状態、ただ形のみを追っている状態、、、

困窮したアブラム一族はエジプトに逃げます。しかしこのエジプトというのは、この世の象徴であり、エジプトに逃げるのが最善の方策ではなかったのです。
アブラムは手痛い失敗をしてしまいます。自分の妻サライの美貌のために、自分が殺される危険を察ししたアブラムは、妻サライを自分の妹だと偽って、エジプトに入ります。パロは、予想通り、サライを見つけ、宮廷に召しいれます。そのおかげで、アブラムは報償を得るのですが、神との約束を思い出してください。あなたを偉大な国民としようといわれていました。つまりアブラムとサライの夫婦の子供が増えて、偉大な国ができていくという想定なのですが、サライが宮廷に入ってしまうと、それは不可能になってしまうのです。アブラムは自分の身を守るために、自分の妻を売っただけではなく、神のご計画を台無しにしてしまったのです。

 私たちも、つらいとき、この世の慰めに救いを求めてしまいがちです。しかしそれは私たちをさらに苦しい状態に導くだけなのです。神にこそ救いを求めるべきなのです。神は言っておられます。「あなた方の耐えられない試練は与えない。そして逃げ道も必ず与える」と。
試練にあっているときこそ、神により頼みましょう。
 
 神はパロの宮廷に病を起こし、サライとアブラムはエジプトから追い出されます。アブラムに何の危害も加えずにです。神はここで哀れみ深いお方だということを示されたのです。
自分の過ちに気づいたアブラムは元来た道を引き返し、べテルで、悔い改めの祈りを神に祈ります。
アブラムはこの哀れみ深い神を信じ続け、少しづつ信仰を成長させていくのです。

 私たちも生活の中で、神の御心に反したことをしてしまうことがあるでしょう。
でも神は哀れみ深いお方です。私たちの犯した失敗のため私たちがどうにもならない状態になってしまったときでも、神は私たちを引き上げてくださいます。
 この哀れみ深い神が私たちを見ていてくださる。なんと心強いことでしょう。
この神をしっかりとつかんでいましょう。