2009年5月31日日曜日

<<一枚の写真>>



1枚の写真がある。

今、切り取られたばかりの写真

この瞬間にしか取れないものだけれど、

流れ行く時を超えたものとつながっている。

究極の存在、神。ここに神の視点を見ることができる

今を生きるとは

この神の視点を持って生きること

2009年5月24日日曜日

走ること

 走る

  ただ走る

   足のだるさ

    わき腹の痛み
  
  汗の中で流体となる

            体幹の感覚が鋭敏になる

                命、身体を持っていることに祝福あれ      

                  主に少しでも近づける。

                     体を使って走ること、

                         主を賛美するひとつの方法

2009年5月16日土曜日

アブラムの旅(2)

ハオンの部屋へようこそ。

Twila Parisという人がこんな歌詞の曲を作っています。

”You have been faithful when I have been faithless,
Oh unending Fountain of Grace
For ever giving when I have been selfish,
Oh unending Fountain of Grace”
                        'Fountain Of Grace'

アブラハムもfaithless, selfishでありました。
私たちはみなそうです。
そして神はいつもfaithfulなのです。

創世記15章から20章までの大きな流れをみてみると、それがよくわかります。

15章 
アブラムはメソポタミアの軍隊を追い払い、ロトを救出し、ソドムの王の褒章を断り、神を讃えるメルキゼデクにささげモノをしました。
しかしその後不安が襲ってきます。どんな不安でしょうか
追い払った国々がまた立て直して帰ってくるのではないか、ということかもしれません。跡継ぎがないことから来る将来の不安かもしれません。
そんなアブラムに、主の言葉が現れます。
「恐れることはない、私はあなたの盾である。あなたの受け取る報いは大きい。」
私たちの人生をちょっと考えてみると、不安との戦いというのが大きな要素になってくるといえないでしょうか。明日の仕事の不安、老後の不安、子供の将来の不安、、、、
でも神は常に恐れるなといってくださるのです。

なぜ私たちが恐れなくてよいかというと、神が私たちの盾となってくださるからなのです。
盾となってくださるということは、飛んでくる矢を自ら受けてくださるのです。
これほど心強い言葉があるでしょうか

そしてあなたの受ける報いは大きいといわれます。
アブラムは言います。どんな報いをあたえてくださるのですか?
神はそれに答えて、アブラム自身の子供が生まれ、そこからアブラムの子孫が星の数ほどになるといわれるのです。
アブラムはとっさに、不可能だと思ったでしょう。
でもその神を信じたのです。
神はそれを知って、義とされました。これでよいのです。

神とともに歩もうとするものが、不安に襲われるとき、神のしてくださることはこれなのです。
1)恐れる必要はない
2)将来の希望、ビジョンが与えられる
どのように今の問題が解決されるかということは後回しなのです。
私たちに求められているのは、恐れないこと、ビジョンを持ち続けることです。

16章
神から約束を与えられまたものの、あいかわらず、子供は与えられません。私たちはそんなとき、どうするでしょう。何かしなければいけないのではないかと思うはずです。サライもそう思ったのです。サライは女奴隷のハガルに子供を生ませることを提案します。ハガルというのはアブラムがエジプトに行ったとき手に入れたエジプト人の奴隷です。
アブラムに子供が生まれるという神からの示しがあったので、アブラムとハガルの子供でもよいと考えたのでしょう。社会的には受け入れられる方法です。
でもこれは神の考えられた方法ではありませんでした。私たちは待つことが苦手なので、自分だけで解決方法を考えてしまいがちですが、これは神が望まれることではありません。あくまでも神に聞くということが大切なのです。

身ごもったハガルは、子供のできないサライを見下げるようになります。それに耐えられないサライはハガルにつらく当たります。サライはつらさに耐えかねて家を出て行きます。エジプトに帰ろうと思ったのでしょう。しかしシェルというところに来たとき、主がハガルに現れるのです。シェルというのはカナンとエジプトの間にある町です。そしてアブラムとサライの元へ戻り、身を低くして仕えなさいと告げるとともに、身ごもっている子供を祝福しよう、イシュマエルとなづけるように、といわれるのです。イシュマエルというのは、(神は聞かれる)という意味の言葉です。ハガルは,神をエルロイ(神は私の苦しみを見られる)と呼びます。そうなのです。神は私たちの声を聞き、苦しみを見ていてくださるのです。私たちが苦しみの中で逃げようと思ったとき(ハガルといういのは逃亡という意味を持っています)、壁にぶつかったとき(シェルというのは壁という意味です)神は私たちの前に現れてくださるのです。そして逃げるなという力づけの言葉とともに、祝福の約束をしてくださるのです。なんと慰められることでしょう。

17章
イシュマエルが生まれて、13年、神は再びアブラムに現れます。
  今度は自らをGod almightyとして、現れるのです。これはエル シャダイという神の名前です。そして
  「私の前を歩き、まったき人となれ」といわれます。
  どのようにしたら、まったきひとになれるのでしょう。神の前を歩くことによってです。
  神の前を歩くというのは、ちょうどお母さんが小さな子供から目を話さないよう自分の前においておくように、親の見えるところにいるということなのです。神から隠れないということなのです。神はいつも私たちを見ていてくださるのです。
  そしてアブラムに言われます。
  名前を変えなさい あなたの名前はアブラムではない、アブラハムとなる。そしてサライもサラと名前を変えるように言われます。
   名前は人をあらわすと言いますが、それはそのとおりで、私たちの名前を変えるということは私たちも心機一転、新しくなりなさいということなのです。
  神はその後、契約のしるしとして割礼をしなさいといわれます。
  割礼というのは、男性性器のの包皮を切り取ることです。これは当然、人間の側に痛みを伴います。この意味するところは古い自分を切り捨てるということ、自分の努力や失敗、そして罪からなる自分を捨てること、心をきれいにすることです。まさに新しくなることが要求されているのです。
神は15章で、動物を二つに切り裂かせ、その間を通るという形で、アブラムと子孫の恵みと土地の付与に関する契約を結ばれました。今回はアブラムに自分の肉体を切らせるという形でこの契約を結ぶのです。

  そしてサラが子供を生むのだ、と言われます。アブラハムはせせら笑います。そんなばかな、、、
でもアブラムは神の言われたように割礼を行いました。疑ってもいいのです。言われたことを行うことが大切なのです。  

18章 
しばらくすると、神が人の姿を取って、アブラハムとサラを訪問しに来てくれます。
アブラハムはこの客人が只者でないことを知り、至れり尽くせりのもてなしをします。
食事を共にするというのは親しい交わりをするということです。神は親しい関係を築くことを望んでおられるのです。
  そしてサラが聞いていることを確認したうえで、来年の今頃サラが子供を生むのだ、といわれます。  サラもおもわず、そんなばかなと思います。でも、神は言われます。なぜ神にできないことがあると思うのか。 サラは驚きました。心の中で思っただけなのに、自分の心を言い当てられたからです。そしておそらく、ここで、サラも神を信じたことでしょう。
        
  そして神はさらに、アブラムにソドムの滅ぼしの話をします。なぜソドムを滅ぼすことを話したのでしょうか。それはすべての国がアブラハムにより祝福されることになることを見越し、罪のきわめて重いソドムはその前に滅ぼされなければならないこと、またアブラムが自分の子孫に正しいことをするように教えるとき、ソドムの罪の話をし、神は裁かれるときには厳しく裁く方であることを教えさせる必要があるからです。

私たちはどうでしょう。神にできないことはないと心の底から信じられますか?
そして神は本当に裁く方であると信じられますか。


19章 
み使いはソドムを訪問して、ロトに会います。ロトもアブラハムと同様、この客が只者でないことを知り、もてなします。ロトの家に泊まります。しかしソドムの人々はロトのところに客が来たのを知り、なんと性交渉をさせろとおしかけるのです。ロトは客人を守るために、代わりに自分の娘を差し出そうという、とんでもないことを言うのです。でも町の人たちは収まりません。なんという町でしょう。ものすごく乱れた世界です。町の人たちもひどいですが、ロトもひどいのです。
    ロトはソドムで裁き司のように振舞っていましたが、このような環境の中にいると、常識も崩れてくるのでしょう。それでもソドムの人からは疎まれていました。
客人はソドムを滅ぼすことをロトに告げ、逃げるように言います。ロトは自分の娘婿に、逃げるように言いますが、冗談を言っていると思われてしまいます。ロトが信用されていなかったということがわかります。またロトも本気で言っていなかったのかもしれません。なぜなら、その後また客人が逃げるように催促したときも、ロトはなかなか逃げないからです。そして無理に手を引かれて逃げるときになっても、山には逃げたくない。小さな町(ツオアル)に行かせてくれと願うのです。
   神はそんなロトの願いを聞き入れ、ツオアルに逃げさせ、ソドムとゴモラの町を硫黄の火で燃やし尽くされます。逃げる途中、ロトの妻は振り返ってはいけないといわれていたにもかかわらず、町に未練があって、振り返ったため、塩の柱にされてしまいます。
   ロトと、不たちの娘は助かりました。しかし硫黄の火を目撃した後、ロトは恐れが支配するようになり、皮肉なことに山に逃げ込むのです。
  悲惨な結末を防止するために、どうしたらよかったのでしょう。中途半端な信仰が問われているのです。

 私たちの信仰はどうでしょうか。ロトのように、この世も神の国も両方取ろうという中途半端な信仰になっていないでしょうか。

20  アブラハムはゲラルという国で、またサラを自分の妹だといいます。
    二人とも、サラから子孫が生まれると聞いたのに、、、
    エジプトで行った同じうそをまたつくのです。
    でもアブラハムを罰することなく、神がゲラルの王に現れて、サラを不思議な方法で救い出します。

   ここまで見てわかるように、おろかな人間です。
でも神は私たちを信じ続けてくださいます。


  

2009年5月11日月曜日

とわにさんざめく 合唱


「さくら」というタイトルの歌には、よい歌がたくさんある。森山直太郎、こぶくろなど、、、日本人にとって、さくらというのは霊感が湧き出る対象なのだろう。

私は森山直太郎の歌が一番好きであるが、最近Youtubeでその合唱バージョンを聞いて、合唱のすばらしさに改めて感動した。

まず音のハーモニーの美しさ。
不協和音ではないが、半音違う声をハーモニーさせるだけで、そこからかもし出される音の空間は、まさに異次元の世界である。そしてそれが次の瞬間には違う音となり、ダイナミックな重さのないダンスが展開される。

さらに、合唱とメロディーとのダイナミックな関係。
たいていは控えめに、曲に厚さを与える役割を演じているが、時にメロディーを超えた大きな展開をして合唱の存在をアピールする。これがまた太陽の黒点のプロミネンスのようで、味わいがある。
シャーロット チャーチという歌手がクリスマスの賛美歌を集めたCDがあったのを思い出す。
その中で彼女は合唱がメロディーを歌う中で、自らメロディーを越えて自由に歌う絶妙な賛美を展開していた。

そして、歌詞も、上質だ。「輝ける君の未来を願う本当の言葉」が「今なら言えるだろうか」と自問しているのである。本当のものを求めるこの謙虚さ、、、本当のものはどこにあるのか。 私たちはやはり本当のモノを求めたい。

聖書にこんなことばがある。
「私が道であり、真理であり、命なのです」
真理というもの、ほんとうのもの、永遠に変わらないものは、イエスキリストにこそあると言っているのである。


いずれにせよ、この合唱は音の世界と、言葉の世界があいまって、未来への希望、神の世界をかもし出している。合唱版「桜」は、迷える子羊を導く羊飼いの笛よろしく、私たちをさんざめく日差しをあびる、清き牧場に導いてくれるのである。

ぜひお試しあれ。

2009年5月9日土曜日

アブラムの旅

私たちは何を信じて生きているのでしょうか。本当に大切なものをつかんでいるでしょうか。
創世記に書かれているアブラムの旅はそんな私たちに、貴重な助言を与えてくれます。

 アブラハムーユダヤ教徒の父と仰がれ、イスラム教での偉大なる預言者としてあがめられ、そしてキリスト教徒の間では信仰の父と呼ばれる彼は、以前アブラムという名前のメソポタミアの住人でした。

 彼の父テラは、アブラムとおいのロト、アブラムの妻サライを連れて、当時非常に栄えていたウルを出て、カナンの地に向います。
しかし途中のハランという地に、いついてしまい、カナンへの旅は挫折します。

しかしテラが亡くなり、アブラムが75歳になったとき、神はアブラムに現れます。
「あなたの生まれ故郷、父の家を出て、私の示す土地に行きなさい」と。
アブラムはこの言葉に従い、カナンの地に向かいます。
引越しをするときのことを考えて見ましょう。どのようなところなのか、物価水準はどのくらいなのか、文化的にはどうなのか、私たちはいろいろと調査して、引越しを決定します。
でもカナンの地がどのようになっているか、豊かな土地なのか、すでに住んでいる人がいるのか、彼には皆目見当がつきません。ただ神がここに行きなさいといわれただけなのです。
アブラムは神のこの言葉を握り締め、カナンの土地に到着します。
神の言葉を聞いたとき、「何かが与えられるなら、それを信じよう」というのではないのです。私たちに最初に与えられるのは言葉だけなのです。しかしその言葉を信じて行動を起こすとき、神の祝福が与えられるのです。

カナンのシェケムという土地に着いたアブラムですが、そこにはカナン人がしっかりと住んでいました。アブラムはいかに落胆したことでしょう。

でも神様は私たちを見放されはしません。すぐ後に神は自らを現わされます。
そして「この地をあなたの子孫に与える」と言われるのです。
「間違ってはいなかった。正しい場所に来ていたのだ」、とほっとする反面、「私の子孫に与えられるのであって、私に与えられるのではないのとか」とがっかりもしたでしょう。
それでも周りにいるカナン人のことを考えれば、そんなに簡単にこの地が自分のものとなることはありえないと納得がいったことでしょう。彼は祭壇を築き、神に祈りをささげます。

神は私たちが信仰に基づいて神に従ったとき、自らを示してくださいます。神が自らを示してくださらないと悩んでいるのであれば、まず神に従ってみましょう。

 さて、アブラムはそこからべテルとアイの間の丘に移動し、テントを張り、周りの人にあかしをし、説教を始めるのです。
宣教活動の開始です。ここでべテルというのは「神の家」という意味があり、アイというのは「廃墟」という意味です。アブラムは神以外は廃墟と考えることができるようになり、神の家に集中するのです。ところが、そこから南のネゲブへ向かいます。ネゲブというのは「乾燥」という意味の言葉で、砂漠地帯です。
そして飢饉に襲われます。私たちも、神を信じてしばらくすると、乾燥状態に陥ることがあります。
生きているのか生きていないのかわからない状態、潤いのない状態、ただ形のみを追っている状態、、、

困窮したアブラム一族はエジプトに逃げます。しかしこのエジプトというのは、この世の象徴であり、エジプトに逃げるのが最善の方策ではなかったのです。
アブラムは手痛い失敗をしてしまいます。自分の妻サライの美貌のために、自分が殺される危険を察ししたアブラムは、妻サライを自分の妹だと偽って、エジプトに入ります。パロは、予想通り、サライを見つけ、宮廷に召しいれます。そのおかげで、アブラムは報償を得るのですが、神との約束を思い出してください。あなたを偉大な国民としようといわれていました。つまりアブラムとサライの夫婦の子供が増えて、偉大な国ができていくという想定なのですが、サライが宮廷に入ってしまうと、それは不可能になってしまうのです。アブラムは自分の身を守るために、自分の妻を売っただけではなく、神のご計画を台無しにしてしまったのです。

 私たちも、つらいとき、この世の慰めに救いを求めてしまいがちです。しかしそれは私たちをさらに苦しい状態に導くだけなのです。神にこそ救いを求めるべきなのです。神は言っておられます。「あなた方の耐えられない試練は与えない。そして逃げ道も必ず与える」と。
試練にあっているときこそ、神により頼みましょう。
 
 神はパロの宮廷に病を起こし、サライとアブラムはエジプトから追い出されます。アブラムに何の危害も加えずにです。神はここで哀れみ深いお方だということを示されたのです。
自分の過ちに気づいたアブラムは元来た道を引き返し、べテルで、悔い改めの祈りを神に祈ります。
アブラムはこの哀れみ深い神を信じ続け、少しづつ信仰を成長させていくのです。

 私たちも生活の中で、神の御心に反したことをしてしまうことがあるでしょう。
でも神は哀れみ深いお方です。私たちの犯した失敗のため私たちがどうにもならない状態になってしまったときでも、神は私たちを引き上げてくださいます。
 この哀れみ深い神が私たちを見ていてくださる。なんと心強いことでしょう。
この神をしっかりとつかんでいましょう。