ヤコブ ー イサクとレベッカに生まれた双子の一人。
生まれた順番はエサウが最初で、続いてヤコブ。
ヤコブはエサウのかかとをつかんで生まれてきたので、ヤコブとなずけられた.
「かかとをつかむもの」「人を出し抜くもの」。
聖書の創世記に出てくるヤコブは、この名前が示すように、人をだますことを気にすることなく、目的のためには手段を選ばない、冷酷な男。
この双子が生まれるとき、神のお告げが与えられていた。
「一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える」と。
レベカは少なくともこの神の言葉を聞いていた。エサウがヤコブに仕えるようになることを知っていた。
この二人が成長し、あるときエサウは腹をすかせて帰ってきた。猟に出る人、エサウに対し、家で料理する人、ヤコブ。
エサウはスープをくれるなら長子の権利を譲り渡すと、ヤコブに口頭で約束してしまう。
エサウの欲望に負ける性格が見て取れるが、逆にヤコブの長子の権利へのしつこさもみてとれる.. ヤコブは機会を見逃さない。大変頭がいい男なのである。
イサクは年を取り、世代交代の儀式を行おうとする。神のお告げを無視して、エサウを祝福しようとする。ひそかにエサウを呼んで、猟をしてきて、食べさせてくれと頼むが、それを聞いていたレベッカが策略を働かせ、ヤコブにエサウのふりをさせ、イサクから長子の祝福を受ける。
祝福がヤコブに対して行われてしまったことを知ったエサウは激怒して、ヤコブを殺すことをたくらむ。
それを知ったレベカはヤコブを逃がすことを考えるが、ただ逃がすのではなく、ちゃんとした理由をつける。嫁探し、、
ヤコブはレベカの提案を受けて、ベルシェバからイサクの故郷であるハランまで、嫁探しに行く。
1、べテルでの出会い
しかし実際はエサウからの逃亡旅行。その途中、ヤコブは石を枕にして寝る。エサウから早く逃げたい、本当にまずいことをしたという思い、良心の呵責に責めさいなまれる。
石を枕にして寝るという表現は、英語やフランス語のことわざ「There is no pillow so soft as a clear conscience.」(よき良心は、やわらかい枕である。)を考えてみると、よくわかる。ヤコブの良心は大変痛んでいた。だから、枕は本当はやわらかかったとしても、石のように硬く感じられたに違いない。
ヤコブはそこで夢を見る。
はしごが天と地に立てかけられていて、天使たちが上がったり下がったりしている。
これはこのとき、神とヤコブの間に道が開かれたことを示している。
しかし夢だけではない。主が傍らに立っていて、ヤコブに語られるのだ。
―アブラハムイサクの神である。
―この地をあなたとあなたの子孫に与えよう
―子孫は多くなり、すべての種族はあなたによって祝福される
―私はあなたとともにある
―どこに行ってもあなたを守り、この地に連れ戻そう
―約束を果たすまではあなたを捨てない
翌朝、恐れ多い経験をしたことを自覚する。枕にした石をとって、石の柱とし、油を注いだ。そしてそこをべテル(神の家)と呼んだ。
なんと不思議な約束だろう。人を欺いて逃亡中の人間に対し、その罪をとがめることばはどこにもない。
神はヤコブの前に現れてくださり、力づけてくれるのだ。ありえない、、、
でも自分のことを振り返ってみよ。数え切れない罪を犯しているとき、神はそれを非難するために現れただろうか。いや私を救ってくれる神、守ってくださる神として現れたのではないか。
恵みなのである。
またヤコブはここで一人、神と一対一で出合ったのだ。しかも神から訪れてくださったのだ。
今まで神というのは父の神、母の神ではあっても、自分の神ではなかった。ここで、初めてヤコブは自分の神と出会う。神からの恵みである。
主がともにいてくださったのに、私は知らなかった。
このような経験はないだろうか
ともにいてくださり、守ってくださり、必要なものを与えてくださり、父の家に帰らせてくださる、、、
神は私たちと一対一で会ってくださる。
2、ペヌエルでの格闘
その後ヤコブはハランの地に行き、レイチェルを見つけ、結婚しようとするが、素直には結婚させてもらえない。レイチェルの乳、ラバンは,ヤコブに7年間彼のもとで働くことを要求する。ヤコブはその要求を呑み、7年間働く、しかし7年たってみると、レイチェルの姉リアと結婚させられてしまう。そしてレイチェルと結婚するにはもう7年働かなければならなくなる。さらにラバンの家畜の面倒を見るために6年。通算20年ヤコブはラバンに仕えることになる。
ヤコブは兄が弟に仕えるという神の言葉を聞いてそれがすぐに実現することを期待した。しかしヤコブはラバンに20年間仕えることになった。
ヤコブは長子の権利を得るためにエサウを欺いた。しかしヤコブはレイチェルとの結婚のとき、ラバンに欺かれた。
ヤコブは神の時間を待とうとしなかった。しかしヤコブはラバンの時を待たされることになった。
ヤコブはいろいろな罪を犯してきた。ラバンのもとでその罪の刈り取りをさせられるのである。
そして20年後、ヤコブは富むようになっていく。ラバンとの関係も悪くなってきたころ、神のお告げが再びあって、故郷に帰れといわれる。でもヤコブはちゃんとあいさつをすることなく、ラバンに隠れて、逃げ帰る。あいかわらずのヤコブ。
ラバンから解放されたのはいいが、故郷には、ヤコブの命を狙うエサウがいる
まずヤコブは使者を送って、カナンの地に帰ることを伝え、様子を見る。
しかし400人の兵士を率いてエサウが出てきたことを知り、愕然となる。
ヤコブはヤボクの渡しのところでエサウへの贈り物を先に送り、妻子を先に渡すが、自分だけ残る。ここは死海とガリラヤ湖の間にある渡し場。ここをわたると約束の土地カナンの地に入ることになる境界の場所。
エサウと和解できるのかという恐怖、そして今まで自分のしてきた欺き、その呵責がヤコブをとどまらせる。彼はここで、誰かと格闘する。それはイエスキリスト。
この格闘を経ないとカナンの地、約束された土地に入れない。
格闘は一晩中続く。
ヤコブに勝てないのを知って、その人はヤコブの腿の番をはずし、ヤコブはびっこを引く人となる。
自分で何でもやってきた。ヤコブはここで、自分では何でもできない体となる。
そしてその人はいう。私を去らせよ、夜が明けるから
ヤコブはしかし、言う。「祝福してくださるまでは去らせません。」
それを聞いて、その人はあなたの名はなんだ。という。
ヤコブは自分はヤコブだと答える
すると、神はお前はもうヤコブではない。「イスラエル」だというのである。
「神によって統治される人」、イスラエル。そして祝福を受ける。
求めに求めていた祝福を神から受ける。
神からの祝福、それは私たちに希望を与え、生きる力を与えてくれる。
ヤコブはイエスキリストにびっこにされて、つえなしには歩けなくなった、
しかしその痛みによって、神にいつも寄り頼むことを学ばされる。
「私の弱さのうちに主が働かれる」のである。
ヤコブはその場所をペヌエル(神の顔)と名づけた。神の顔を一対一で見たからである。
神はただ言葉をかけてくださるだけでなく、私たちと格闘してくださるのだ。それだけ私たちの悩み、苦しみに関わってくださるのだ。それだけ親しく接してくださるのだ。
ー米国テキサス州ヒューストン、イエスキリストを信じる人の群れ、 疲れた心と魂を癒す場所 __________________________________________________
2009年6月28日日曜日
2009年6月19日金曜日
主は備えてくださる
イサクという人が聖書に出てくる。
アブラハムとサラの間に生まれた最初の息子、神によって予言され、アブラハム100歳のときに生まれた、待ちに待った待望の世継ぎ。
イサクは幼少をベエルシェバという土地周辺で過ごした。今で言うヘブロンの南20マイルの砂漠地帯。まだまだ決まった棲家がなく、転々としていた。
あるとき、アブラハムは神からの言葉を聞く。「モリヤの山に行き、イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」!
アブラハムは翌朝早く出発する。モリヤはエルサレムのことなので、ベエルシェバからだと約40マイル、3日間の旅になる。3日間、アブラハムの苦悩はいかばかりだっただろうか。神はイサクを通して、祝福を与えられると約束されたのだ。しかしその神がイサクを全焼のいけにえとしてささげよといわれる。
イサクは、父アブラハムに、全焼のいけにえはどこにあるのですかとたずねる。アブラハムは「神ご自身が供えてくださる」と答える。そして二人は一緒に歩き続ける。聖書に書かれている記述はそれだけ。
イサクは、この出来事をどのように受け止めたのだろうか。
父のその言葉を信じ、自らの死をも気にしなかったのだろうか。
アブラハムがイサクを祭壇に縛りつけたとき、イサクは自らが全焼のいけにえとなることを悟った。でも神がいけにえを備えてくださるという言葉は信じ続けた。そしてイサクは、あやめられることを受け止めた。この神の御心に対する静かな受容、死をも超えた信仰こそ、イサクのすごいところだ。そして父なる神の声がして、イサクは助けられ、代わりの羊が与えられることで、アブラハムとイサクは、主は備えられる、ということを体験する。
なぜモリヤの山に行かなければならなかったのか。アブラハムがイサクをささげたモリヤの場所は実は後にイエスが十字架についた場所でもある。神はその伏せんとしてこの場所を選ばれたのだ。
ここからイサクとイエスの共通点がいろいろと見えてくる。
イサクは祭壇にしばりつけられるが、淡々と父のなすがままになっていたと思われる。時にイサク16歳。これはイエスキリストが静かに十字架につく姿にぴったりと重なってくるではないか。イエスは十字架につくとき、抵抗したりしていない。またイエスは十字架につく直前、ゲッセマネの薗で祈っているとき、自分の願いではなく、父の思いがなりますようにと祈る。
さらに、アブラハムはイサクを犠牲にささげようとするその寸前で、代わりの犠牲の羊が与えられる。イサクはそのとき死んだも同然。一回死んだと考えられるイサクはそのとき、新しい命を与えられた。それと同じように、父なる神は、一人子イエスを犠牲にささげられた。このとき、代わりの犠牲の羊は現れなかった。しかし3日後にその犠牲の羊自身(イエス)が蘇り、新しい命が与えられた。
主は備えられる。
この出来事の後、アブラハムはイサクの妻を探す作業に入る。近くに住んでいるカナン人から探してはいけない、あくまでも自分の生まれ故郷の女から選ばせる必要がある。
神に祈り、ユーフラテス川上流のナホルの街でレベッカという娘を探し当て、結婚させる。
この間、イサクはまったく表舞台に出てこない。
ただ選ばれた娘を受け入れるだけ。ここにもイサクの従順な性格がうかがえる。
このとき、イサク40歳。
主は備えられる。
結婚したイサクとレベッカはベエルラハイロイという場所に住む。ここはベルシェバよりさらに南の砂漠地帯。
そこにまた飢饉が起こる。父アブラハムは飢饉がおきたとき、豊かなエジプトに逃げた。しかしイサクには神の言葉が与えられる。
「エジプトには行くな、この地に滞在していなさい。
私はおまえとともにいて、おまえを祝福しよう」と。
アブラハムに与えられた約束とほとんど同じだが、違うのは、これらの約束がイサクに与えられるのは、アブラハムが信仰を守ったからだという点にある。アブラハムのゆえにイサクは祝福を受けるのだ。神はいわれた。アブラハムを通してすべての国民は祝福を受けると。
イサクは南のエジプトに行く代わりに、北へ向かい、ゲラルのペリシテ人のところに行く。しかしイサクも父アブラハムと同様、自分の命を守るため、妻を妹だと偽ってしまう。
しかし神の恵みゆえにレベッカは姦淫の罪を犯すことなく、イサクもうそをついた罪を問われない。神がともにいたからである。神がともにいる人間は恐れられる。
その後、主の祝福によって、イサクは大変豊かになる。ペリシテ人のねたみを買い、井戸を埋められてしまう。砂漠生活の者にとって、井戸が埋められるというのは生死を左右する一大事だ。しかしイサクは争うこともなく、別のところに行き、井戸を掘り、水の出る井戸を見つける。そしてまたその井戸をめぐって争いが起きると、その場所を去り、別の井戸を掘る、水が出る、、
「主は備えられる」ということを信じていたからである。
このようなイサクはまさに柔和なもの、平和を求めるものだということができる。このような生き方は現代では尊重されない。しかし神はこれこそ、祝福される生き方だといわれる。
マタイの福音書5:5でイエス様は言われる。「柔和なものは幸いである。そのものは地を相続するからである」と。
イサクはアブラハムへの神の約束によって、豊かな生活をすることができた。アブラハムと同様間違いを犯したが、神は約束のゆえに、イサクを祝福してくださった。
イサクを通して私たちが教えられることは、1)私たちキリスト者はどんな失敗をしようと、私たちにイエスを伝えてくれた先輩、そしてその先輩、最終的にはアブラハムにされた約束によって、神の祝福を受けることができているということだ。私たちが祝福を受けられるのは私たちが合格点を取ったからではない。神の祝福、恵みに感謝しようではないか。そして謙虚になろう。2)そしてイサクに見られる柔和の徳を磨けということだ。主は備えられるということを徹底的に信じるなら、可能になるということを、イサクは示してくれている。柔和は御霊の賜物のひとつであるから、神によって与えられるものであるが、私たちはそれを願うべきなのだ。
イサクの一生は180年、
「主は備えられる」のである。
アブラハムとサラの間に生まれた最初の息子、神によって予言され、アブラハム100歳のときに生まれた、待ちに待った待望の世継ぎ。
イサクは幼少をベエルシェバという土地周辺で過ごした。今で言うヘブロンの南20マイルの砂漠地帯。まだまだ決まった棲家がなく、転々としていた。
あるとき、アブラハムは神からの言葉を聞く。「モリヤの山に行き、イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」!
アブラハムは翌朝早く出発する。モリヤはエルサレムのことなので、ベエルシェバからだと約40マイル、3日間の旅になる。3日間、アブラハムの苦悩はいかばかりだっただろうか。神はイサクを通して、祝福を与えられると約束されたのだ。しかしその神がイサクを全焼のいけにえとしてささげよといわれる。
イサクは、父アブラハムに、全焼のいけにえはどこにあるのですかとたずねる。アブラハムは「神ご自身が供えてくださる」と答える。そして二人は一緒に歩き続ける。聖書に書かれている記述はそれだけ。
イサクは、この出来事をどのように受け止めたのだろうか。
父のその言葉を信じ、自らの死をも気にしなかったのだろうか。
アブラハムがイサクを祭壇に縛りつけたとき、イサクは自らが全焼のいけにえとなることを悟った。でも神がいけにえを備えてくださるという言葉は信じ続けた。そしてイサクは、あやめられることを受け止めた。この神の御心に対する静かな受容、死をも超えた信仰こそ、イサクのすごいところだ。そして父なる神の声がして、イサクは助けられ、代わりの羊が与えられることで、アブラハムとイサクは、主は備えられる、ということを体験する。
なぜモリヤの山に行かなければならなかったのか。アブラハムがイサクをささげたモリヤの場所は実は後にイエスが十字架についた場所でもある。神はその伏せんとしてこの場所を選ばれたのだ。
ここからイサクとイエスの共通点がいろいろと見えてくる。
イサクは祭壇にしばりつけられるが、淡々と父のなすがままになっていたと思われる。時にイサク16歳。これはイエスキリストが静かに十字架につく姿にぴったりと重なってくるではないか。イエスは十字架につくとき、抵抗したりしていない。またイエスは十字架につく直前、ゲッセマネの薗で祈っているとき、自分の願いではなく、父の思いがなりますようにと祈る。
さらに、アブラハムはイサクを犠牲にささげようとするその寸前で、代わりの犠牲の羊が与えられる。イサクはそのとき死んだも同然。一回死んだと考えられるイサクはそのとき、新しい命を与えられた。それと同じように、父なる神は、一人子イエスを犠牲にささげられた。このとき、代わりの犠牲の羊は現れなかった。しかし3日後にその犠牲の羊自身(イエス)が蘇り、新しい命が与えられた。
主は備えられる。
この出来事の後、アブラハムはイサクの妻を探す作業に入る。近くに住んでいるカナン人から探してはいけない、あくまでも自分の生まれ故郷の女から選ばせる必要がある。
神に祈り、ユーフラテス川上流のナホルの街でレベッカという娘を探し当て、結婚させる。
この間、イサクはまったく表舞台に出てこない。
ただ選ばれた娘を受け入れるだけ。ここにもイサクの従順な性格がうかがえる。
このとき、イサク40歳。
主は備えられる。
結婚したイサクとレベッカはベエルラハイロイという場所に住む。ここはベルシェバよりさらに南の砂漠地帯。
そこにまた飢饉が起こる。父アブラハムは飢饉がおきたとき、豊かなエジプトに逃げた。しかしイサクには神の言葉が与えられる。
「エジプトには行くな、この地に滞在していなさい。
私はおまえとともにいて、おまえを祝福しよう」と。
アブラハムに与えられた約束とほとんど同じだが、違うのは、これらの約束がイサクに与えられるのは、アブラハムが信仰を守ったからだという点にある。アブラハムのゆえにイサクは祝福を受けるのだ。神はいわれた。アブラハムを通してすべての国民は祝福を受けると。
イサクは南のエジプトに行く代わりに、北へ向かい、ゲラルのペリシテ人のところに行く。しかしイサクも父アブラハムと同様、自分の命を守るため、妻を妹だと偽ってしまう。
しかし神の恵みゆえにレベッカは姦淫の罪を犯すことなく、イサクもうそをついた罪を問われない。神がともにいたからである。神がともにいる人間は恐れられる。
その後、主の祝福によって、イサクは大変豊かになる。ペリシテ人のねたみを買い、井戸を埋められてしまう。砂漠生活の者にとって、井戸が埋められるというのは生死を左右する一大事だ。しかしイサクは争うこともなく、別のところに行き、井戸を掘り、水の出る井戸を見つける。そしてまたその井戸をめぐって争いが起きると、その場所を去り、別の井戸を掘る、水が出る、、
「主は備えられる」ということを信じていたからである。
このようなイサクはまさに柔和なもの、平和を求めるものだということができる。このような生き方は現代では尊重されない。しかし神はこれこそ、祝福される生き方だといわれる。
マタイの福音書5:5でイエス様は言われる。「柔和なものは幸いである。そのものは地を相続するからである」と。
イサクはアブラハムへの神の約束によって、豊かな生活をすることができた。アブラハムと同様間違いを犯したが、神は約束のゆえに、イサクを祝福してくださった。
イサクを通して私たちが教えられることは、1)私たちキリスト者はどんな失敗をしようと、私たちにイエスを伝えてくれた先輩、そしてその先輩、最終的にはアブラハムにされた約束によって、神の祝福を受けることができているということだ。私たちが祝福を受けられるのは私たちが合格点を取ったからではない。神の祝福、恵みに感謝しようではないか。そして謙虚になろう。2)そしてイサクに見られる柔和の徳を磨けということだ。主は備えられるということを徹底的に信じるなら、可能になるということを、イサクは示してくれている。柔和は御霊の賜物のひとつであるから、神によって与えられるものであるが、私たちはそれを願うべきなのだ。
イサクの一生は180年、
「主は備えられる」のである。
2009年6月6日土曜日
神の応答
困ったとき、神にたずねてみましょう。
そして神の応答を待つのです。
神は不思議な方法でその存在を示してくださることでしょう。
でも注意してください。自分で判断して行動を起こす前に聞くことが大切です。
私は仕事の関係上、よく昼に仮眠をとります。それまで何も祈らないで寝たときは必ず寝坊していたので、あるとき寝る前に、何時に起こしてくださいと祈ったことがありました。
すると、そのときはしっかりと起きるべき時間に目が覚めたのです。これは自分で無意識に暗示したのだと解釈することもできるでしょう。
しかしその後しばらくして、こんなこともありました。
自分にはどうしようもないことがあって、でも神様に見られている気もして、とにかく神に助けてくださいと祈りました。
そのあと、私はうつらうつらとしてしまいました。
すると、何かとても親しい人の微笑が私の右の後ろのほうで聞こえた・見えたような気がして、目が覚めました。夢とは違う不思議な感覚でした。
実際に見ていなくても、人のまなざしを感じることがあります。
このとき、神は私を見まもっていてくださっていることをさりげなく知らせてくださったのです。
不思議です。
神は私が自由に行動することを許されています。でも私が神の御心に沿って行動することを望んでおられます。そして、私がそのようになることを辛抱強く待っていてくださるのです。
でも神の応答は、自分の期待することとは違うこともあります。
あるとき、何時に起こしてくださいと願ったものの、予定より遅く、でもがんばれば何とかなる時間に目が覚めました。何だ、願ったとおりに起こしてくれないではないか。やはり偶然だったのかなどと早とちりしないでください。
それは、「お前の願いは確かに聞いたから起こしたけれど、今日は休んだほうがよい」というメッセージかもしれないのです。私の体調は確かにそのときよくありませんでした。がんばって起きて活動をしていたら、その後寝込んでいたかもしれませんでした。つまり神は私の願いを聞きながらも、長期的に見て、最善のことをしてくださるのです。神は私にこのメッセージを理解してほしかったのです。
「神の前を歩きなさい」ということばが聖書に出てきますが、私たちは、まさに神の見ておられる前を歩いているのです。
もっともっと神の応答を聞きたいと思います。
そして神の応答を待つのです。
神は不思議な方法でその存在を示してくださることでしょう。
でも注意してください。自分で判断して行動を起こす前に聞くことが大切です。
私は仕事の関係上、よく昼に仮眠をとります。それまで何も祈らないで寝たときは必ず寝坊していたので、あるとき寝る前に、何時に起こしてくださいと祈ったことがありました。
すると、そのときはしっかりと起きるべき時間に目が覚めたのです。これは自分で無意識に暗示したのだと解釈することもできるでしょう。
しかしその後しばらくして、こんなこともありました。
自分にはどうしようもないことがあって、でも神様に見られている気もして、とにかく神に助けてくださいと祈りました。
そのあと、私はうつらうつらとしてしまいました。
すると、何かとても親しい人の微笑が私の右の後ろのほうで聞こえた・見えたような気がして、目が覚めました。夢とは違う不思議な感覚でした。
実際に見ていなくても、人のまなざしを感じることがあります。
このとき、神は私を見まもっていてくださっていることをさりげなく知らせてくださったのです。
不思議です。
神は私が自由に行動することを許されています。でも私が神の御心に沿って行動することを望んでおられます。そして、私がそのようになることを辛抱強く待っていてくださるのです。
でも神の応答は、自分の期待することとは違うこともあります。
あるとき、何時に起こしてくださいと願ったものの、予定より遅く、でもがんばれば何とかなる時間に目が覚めました。何だ、願ったとおりに起こしてくれないではないか。やはり偶然だったのかなどと早とちりしないでください。
それは、「お前の願いは確かに聞いたから起こしたけれど、今日は休んだほうがよい」というメッセージかもしれないのです。私の体調は確かにそのときよくありませんでした。がんばって起きて活動をしていたら、その後寝込んでいたかもしれませんでした。つまり神は私の願いを聞きながらも、長期的に見て、最善のことをしてくださるのです。神は私にこのメッセージを理解してほしかったのです。
「神の前を歩きなさい」ということばが聖書に出てきますが、私たちは、まさに神の見ておられる前を歩いているのです。
もっともっと神の応答を聞きたいと思います。
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