2009年6月19日金曜日

主は備えてくださる

イサクという人が聖書に出てくる。
アブラハムとサラの間に生まれた最初の息子、神によって予言され、アブラハム100歳のときに生まれた、待ちに待った待望の世継ぎ。

イサクは幼少をベエルシェバという土地周辺で過ごした。今で言うヘブロンの南20マイルの砂漠地帯。まだまだ決まった棲家がなく、転々としていた。
あるとき、アブラハムは神からの言葉を聞く。「モリヤの山に行き、イサクを全焼のいけにえとしてささげよ」!
アブラハムは翌朝早く出発する。モリヤはエルサレムのことなので、ベエルシェバからだと約40マイル、3日間の旅になる。3日間、アブラハムの苦悩はいかばかりだっただろうか。神はイサクを通して、祝福を与えられると約束されたのだ。しかしその神がイサクを全焼のいけにえとしてささげよといわれる。

イサクは、父アブラハムに、全焼のいけにえはどこにあるのですかとたずねる。アブラハムは「神ご自身が供えてくださる」と答える。そして二人は一緒に歩き続ける。聖書に書かれている記述はそれだけ。
イサクは、この出来事をどのように受け止めたのだろうか。
父のその言葉を信じ、自らの死をも気にしなかったのだろうか。

アブラハムがイサクを祭壇に縛りつけたとき、イサクは自らが全焼のいけにえとなることを悟った。でも神がいけにえを備えてくださるという言葉は信じ続けた。そしてイサクは、あやめられることを受け止めた。この神の御心に対する静かな受容、死をも超えた信仰こそ、イサクのすごいところだ。そして父なる神の声がして、イサクは助けられ、代わりの羊が与えられることで、アブラハムとイサクは、主は備えられる、ということを体験する。

なぜモリヤの山に行かなければならなかったのか。アブラハムがイサクをささげたモリヤの場所は実は後にイエスが十字架についた場所でもある。神はその伏せんとしてこの場所を選ばれたのだ。

ここからイサクとイエスの共通点がいろいろと見えてくる。
イサクは祭壇にしばりつけられるが、淡々と父のなすがままになっていたと思われる。時にイサク16歳。これはイエスキリストが静かに十字架につく姿にぴったりと重なってくるではないか。イエスは十字架につくとき、抵抗したりしていない。またイエスは十字架につく直前、ゲッセマネの薗で祈っているとき、自分の願いではなく、父の思いがなりますようにと祈る。
 さらに、アブラハムはイサクを犠牲にささげようとするその寸前で、代わりの犠牲の羊が与えられる。イサクはそのとき死んだも同然。一回死んだと考えられるイサクはそのとき、新しい命を与えられた。それと同じように、父なる神は、一人子イエスを犠牲にささげられた。このとき、代わりの犠牲の羊は現れなかった。しかし3日後にその犠牲の羊自身(イエス)が蘇り、新しい命が与えられた。
主は備えられる。

この出来事の後、アブラハムはイサクの妻を探す作業に入る。近くに住んでいるカナン人から探してはいけない、あくまでも自分の生まれ故郷の女から選ばせる必要がある。
神に祈り、ユーフラテス川上流のナホルの街でレベッカという娘を探し当て、結婚させる。
この間、イサクはまったく表舞台に出てこない。
ただ選ばれた娘を受け入れるだけ。ここにもイサクの従順な性格がうかがえる。
このとき、イサク40歳。
主は備えられる。

結婚したイサクとレベッカはベエルラハイロイという場所に住む。ここはベルシェバよりさらに南の砂漠地帯。
そこにまた飢饉が起こる。父アブラハムは飢饉がおきたとき、豊かなエジプトに逃げた。しかしイサクには神の言葉が与えられる。
「エジプトには行くな、この地に滞在していなさい。
 私はおまえとともにいて、おまえを祝福しよう」と。
アブラハムに与えられた約束とほとんど同じだが、違うのは、これらの約束がイサクに与えられるのは、アブラハムが信仰を守ったからだという点にある。アブラハムのゆえにイサクは祝福を受けるのだ。神はいわれた。アブラハムを通してすべての国民は祝福を受けると。

イサクは南のエジプトに行く代わりに、北へ向かい、ゲラルのペリシテ人のところに行く。しかしイサクも父アブラハムと同様、自分の命を守るため、妻を妹だと偽ってしまう。
しかし神の恵みゆえにレベッカは姦淫の罪を犯すことなく、イサクもうそをついた罪を問われない。神がともにいたからである。神がともにいる人間は恐れられる。 

その後、主の祝福によって、イサクは大変豊かになる。ペリシテ人のねたみを買い、井戸を埋められてしまう。砂漠生活の者にとって、井戸が埋められるというのは生死を左右する一大事だ。しかしイサクは争うこともなく、別のところに行き、井戸を掘り、水の出る井戸を見つける。そしてまたその井戸をめぐって争いが起きると、その場所を去り、別の井戸を掘る、水が出る、、
「主は備えられる」ということを信じていたからである。

このようなイサクはまさに柔和なもの、平和を求めるものだということができる。このような生き方は現代では尊重されない。しかし神はこれこそ、祝福される生き方だといわれる。
マタイの福音書5:5でイエス様は言われる。「柔和なものは幸いである。そのものは地を相続するからである」と。

イサクはアブラハムへの神の約束によって、豊かな生活をすることができた。アブラハムと同様間違いを犯したが、神は約束のゆえに、イサクを祝福してくださった。

イサクを通して私たちが教えられることは、1)私たちキリスト者はどんな失敗をしようと、私たちにイエスを伝えてくれた先輩、そしてその先輩、最終的にはアブラハムにされた約束によって、神の祝福を受けることができているということだ。私たちが祝福を受けられるのは私たちが合格点を取ったからではない。神の祝福、恵みに感謝しようではないか。そして謙虚になろう。2)そしてイサクに見られる柔和の徳を磨けということだ。主は備えられるということを徹底的に信じるなら、可能になるということを、イサクは示してくれている。柔和は御霊の賜物のひとつであるから、神によって与えられるものであるが、私たちはそれを願うべきなのだ。

イサクの一生は180年、
「主は備えられる」のである。

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