「むなしいものに従っていって、むなしいものとなってしまったのか」
旧約聖書にエレミヤという預言者がいます。エレミアは紀元前7世紀にイスラエルの人です。当時のイスラエルは北王国と南王国とに分裂した後、北王国がアッシリアに征服され、南王国もその存在が危うくなっていた時期でした。
このイスラエルに向かって、神が言われたのが冒頭の言葉です。「むなしいものにしたがっていって、むなしいものになってしまったのか」と神は言われます。
「むなしい」ということばは風とか息という意味のことばです。風も息も、ぱっと吹けばそれで無くなってしまうものです。同じ聖書の「伝道者の書」という書の冒頭で、「空の空、すべては空」というくだりがありますが、この「空」ということばは、まさにここで使われている「むなしい」というこのことばと同じです
私たちの生活の中で、「むなしい」ものとは何でしょうか。
いろいろと思いつきますが、お金というのもあるかもしれません。
お金は私たちの生活の中の重要な一部です。しかしさっとなくなってしまうものであることからいえば、、むなしいものといえるでしょう。
ある程度はないと、生活そのものができないことは確かです。ただここで言うある程度というのはかなり主観的なもので、周囲との比較から導かれることが多いのです。
ですから問題は従うか従わないかです。必要であることは必要なのですが、それでも従わないことはできるのです。お金が足りないことをすべての原因にすることや、お金をためることを最高の目標にするということなどはお金に従っていることになるでしょう。
むなしいものの他の例を考えると、「自分たちの勝手な心あるいは感情」はどうでしょう。
私たちの心は、さっと来て、さっと過ぎ去っていきます。
でも私たちはこの心によって行動を起こしたり、起こさなかったりすることがあります。
このような感情に従っていると、私たち自身も、むなしい、一時的なもので終わってしまうのです。
むなしいものではなく、神に従いなさい、というのがここでのメッセージです。
神は、変わりません。そして私たちと個人的な関わりを持ってくれる方です。
神を優先順位の一番において、まずは神とのかかわりを楽しみましょう。
ー米国テキサス州ヒューストン、イエスキリストを信じる人の群れ、 疲れた心と魂を癒す場所 __________________________________________________
2009年8月20日木曜日
2009年8月6日木曜日
神の召し
旧約聖書には預言者という人たちの書いたものがかなりの割合で出ています。預言者とは神の言葉を伝える人です。予言というと、2012に天変地異が起こるというように未来のことを言い当てる人だと思われがちですが、そうではなく、ここでは預言という言葉が示しているように神の言葉を預かる人、すなわち神が言われた事を伝え、神の感情を伝えるのがその役割です。
この預言者というのはイスラエルでは、2つの時期に多く輩出されました。
イスラエルは独自の王を持つようになり、ダビデ王やソロモン王という有名な王がでてきますが、ソロモン王の後、イスラエルは南北に分裂します。そして北のイスラエルという国と南のユダという国に分かれます。
預言者が輩出される第一の時代は北のイスラエルの国がアッシリアに滅ぼされる前であり、2回目は南のユダの国がバビロンに滅ぼされる前です。一回目の時期は紀元前約750年、イザヤやミカなどの預言者が出ました。
この2回目の時期は紀元前で言うと650BCのあたり、今回取り上げるエレミヤやエゼキエルという預言者が出ています。
預言者の伝える言葉というのは、励まし、慰めの言葉もありますが、多くの場合、神が怒ったり、悲しんだりしているということを伝えなくてはならないのです。当然人々はそういうことは聞きたくありません。ですから、とてもつらく、苦しい仕事でした。
エレミヤは、神が人々を見て、悲しんでいるということ、災難がやってくるということを伝えるという使命を受けた人です。イスラエルの人々は神にそむいて、神でないものを拝んだり、自分の力だけに頼っていたのです。エレミヤは悲しみの予言者と呼ばれています。
エレミヤはベンジャミンの土地、つまりイスラエルの近辺の祭司の息子として生まれました。
祭司というのは神に仕える人。人の罪を神のもとに持っていって、犠牲をささげ、許しを請う人です。祭司は民の言葉を神に伝える人ですが、預言者は反対に神の言葉を民に伝える人なので、反対の役割になります。
旧約聖書、エレミヤ書の1章の2節に ユダの王ヨシヤの時代に主のことばがあった、とかかれています。ヨシヤという王(641-609まで即位)はユダの王ですが、神に従っていた王として有名です。しかしヨシヤに続く王はみな神を無視し。神からは慣れていく王でした。エレミヤはこの下降の時代に生を受けたのです。
エレミヤは13-20歳のときに神の言葉を聞きました。
しかしエレミヤは、若いからその命令は受けられませんと答えます。ここで言う「若い」というのは年齢が若いということではなく、経験や知識が無いということを含んでいます。
でも神はそんなことを理由に断るなと切り返します。
神はそれに対して、次のような2つのことを伝えられます。
1)私がともにいるからと言われます。
ともにいてくださることほど、力つよいことはないのではないでしょうか。
人が悲しみの中にいるとき、どんな言葉も上滑りしてしまうという事があります。何を言って言いかわからないときもあります。でもそんなときでも、逃げることなく、ともにいてくれるということは、頼もしいことです。
2)そして主はエレミヤに触れられ、言葉を与えられます。
神が触ってくださるのです。そして神の言葉を授けられたのです。自分で何かを作り出して言う必要は無いのです。神に示された言葉を言いさえすればよいのです。どう語ってよいかわからないというエレミヤの言葉に対しての行動です。
能力が無いことは、神の仕事を拒む理由にはならないのです。また逆に力があるから仕事を任せられるのでもないのです。
神は、ただともにいてくださるだけでなく、必要なことも与えてくださるのです。
エレミヤは神の召しを受けました。
私たちはどうでしょうか。教会というのは、神に召しだされた人の集まりです。
エレミヤが神に預言者として召しだされたように私たち一人一人にも召しがあるのです。
神は、私たち一人一人に「主はともにいる」という約束とともに、かけがいの無い使命を与えられていることを覚えましょう。
この預言者というのはイスラエルでは、2つの時期に多く輩出されました。
イスラエルは独自の王を持つようになり、ダビデ王やソロモン王という有名な王がでてきますが、ソロモン王の後、イスラエルは南北に分裂します。そして北のイスラエルという国と南のユダという国に分かれます。
預言者が輩出される第一の時代は北のイスラエルの国がアッシリアに滅ぼされる前であり、2回目は南のユダの国がバビロンに滅ぼされる前です。一回目の時期は紀元前約750年、イザヤやミカなどの預言者が出ました。
この2回目の時期は紀元前で言うと650BCのあたり、今回取り上げるエレミヤやエゼキエルという預言者が出ています。
預言者の伝える言葉というのは、励まし、慰めの言葉もありますが、多くの場合、神が怒ったり、悲しんだりしているということを伝えなくてはならないのです。当然人々はそういうことは聞きたくありません。ですから、とてもつらく、苦しい仕事でした。
エレミヤは、神が人々を見て、悲しんでいるということ、災難がやってくるということを伝えるという使命を受けた人です。イスラエルの人々は神にそむいて、神でないものを拝んだり、自分の力だけに頼っていたのです。エレミヤは悲しみの予言者と呼ばれています。
エレミヤはベンジャミンの土地、つまりイスラエルの近辺の祭司の息子として生まれました。
祭司というのは神に仕える人。人の罪を神のもとに持っていって、犠牲をささげ、許しを請う人です。祭司は民の言葉を神に伝える人ですが、預言者は反対に神の言葉を民に伝える人なので、反対の役割になります。
旧約聖書、エレミヤ書の1章の2節に ユダの王ヨシヤの時代に主のことばがあった、とかかれています。ヨシヤという王(641-609まで即位)はユダの王ですが、神に従っていた王として有名です。しかしヨシヤに続く王はみな神を無視し。神からは慣れていく王でした。エレミヤはこの下降の時代に生を受けたのです。
エレミヤは13-20歳のときに神の言葉を聞きました。
しかしエレミヤは、若いからその命令は受けられませんと答えます。ここで言う「若い」というのは年齢が若いということではなく、経験や知識が無いということを含んでいます。
でも神はそんなことを理由に断るなと切り返します。
神はそれに対して、次のような2つのことを伝えられます。
1)私がともにいるからと言われます。
ともにいてくださることほど、力つよいことはないのではないでしょうか。
人が悲しみの中にいるとき、どんな言葉も上滑りしてしまうという事があります。何を言って言いかわからないときもあります。でもそんなときでも、逃げることなく、ともにいてくれるということは、頼もしいことです。
2)そして主はエレミヤに触れられ、言葉を与えられます。
神が触ってくださるのです。そして神の言葉を授けられたのです。自分で何かを作り出して言う必要は無いのです。神に示された言葉を言いさえすればよいのです。どう語ってよいかわからないというエレミヤの言葉に対しての行動です。
能力が無いことは、神の仕事を拒む理由にはならないのです。また逆に力があるから仕事を任せられるのでもないのです。
神は、ただともにいてくださるだけでなく、必要なことも与えてくださるのです。
エレミヤは神の召しを受けました。
私たちはどうでしょうか。教会というのは、神に召しだされた人の集まりです。
エレミヤが神に預言者として召しだされたように私たち一人一人にも召しがあるのです。
神は、私たち一人一人に「主はともにいる」という約束とともに、かけがいの無い使命を与えられていることを覚えましょう。
2009年8月2日日曜日
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