2009年8月6日木曜日

神の召し

旧約聖書には預言者という人たちの書いたものがかなりの割合で出ています。預言者とは神の言葉を伝える人です。予言というと、2012に天変地異が起こるというように未来のことを言い当てる人だと思われがちですが、そうではなく、ここでは預言という言葉が示しているように神の言葉を預かる人、すなわち神が言われた事を伝え、神の感情を伝えるのがその役割です。

この預言者というのはイスラエルでは、2つの時期に多く輩出されました。
イスラエルは独自の王を持つようになり、ダビデ王やソロモン王という有名な王がでてきますが、ソロモン王の後、イスラエルは南北に分裂します。そして北のイスラエルという国と南のユダという国に分かれます。
預言者が輩出される第一の時代は北のイスラエルの国がアッシリアに滅ぼされる前であり、2回目は南のユダの国がバビロンに滅ぼされる前です。一回目の時期は紀元前約750年、イザヤやミカなどの預言者が出ました。
この2回目の時期は紀元前で言うと650BCのあたり、今回取り上げるエレミヤやエゼキエルという預言者が出ています。

預言者の伝える言葉というのは、励まし、慰めの言葉もありますが、多くの場合、神が怒ったり、悲しんだりしているということを伝えなくてはならないのです。当然人々はそういうことは聞きたくありません。ですから、とてもつらく、苦しい仕事でした。


エレミヤは、神が人々を見て、悲しんでいるということ、災難がやってくるということを伝えるという使命を受けた人です。イスラエルの人々は神にそむいて、神でないものを拝んだり、自分の力だけに頼っていたのです。エレミヤは悲しみの予言者と呼ばれています。
 エレミヤはベンジャミンの土地、つまりイスラエルの近辺の祭司の息子として生まれました。
祭司というのは神に仕える人。人の罪を神のもとに持っていって、犠牲をささげ、許しを請う人です。祭司は民の言葉を神に伝える人ですが、預言者は反対に神の言葉を民に伝える人なので、反対の役割になります。

旧約聖書、エレミヤ書の1章の2節に ユダの王ヨシヤの時代に主のことばがあった、とかかれています。ヨシヤという王(641-609まで即位)はユダの王ですが、神に従っていた王として有名です。しかしヨシヤに続く王はみな神を無視し。神からは慣れていく王でした。エレミヤはこの下降の時代に生を受けたのです。

エレミヤは13-20歳のときに神の言葉を聞きました。
しかしエレミヤは、若いからその命令は受けられませんと答えます。ここで言う「若い」というのは年齢が若いということではなく、経験や知識が無いということを含んでいます。

でも神はそんなことを理由に断るなと切り返します。
神はそれに対して、次のような2つのことを伝えられます。

1)私がともにいるからと言われます。
ともにいてくださることほど、力つよいことはないのではないでしょうか。
人が悲しみの中にいるとき、どんな言葉も上滑りしてしまうという事があります。何を言って言いかわからないときもあります。でもそんなときでも、逃げることなく、ともにいてくれるということは、頼もしいことです。
2)そして主はエレミヤに触れられ、言葉を与えられます。
 神が触ってくださるのです。そして神の言葉を授けられたのです。自分で何かを作り出して言う必要は無いのです。神に示された言葉を言いさえすればよいのです。どう語ってよいかわからないというエレミヤの言葉に対しての行動です。

能力が無いことは、神の仕事を拒む理由にはならないのです。また逆に力があるから仕事を任せられるのでもないのです。
神は、ただともにいてくださるだけでなく、必要なことも与えてくださるのです。

エレミヤは神の召しを受けました。
私たちはどうでしょうか。教会というのは、神に召しだされた人の集まりです。
エレミヤが神に預言者として召しだされたように私たち一人一人にも召しがあるのです。

神は、私たち一人一人に「主はともにいる」という約束とともに、かけがいの無い使命を与えられていることを覚えましょう。

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