2009年9月25日金曜日

頑固な心

真実を求めるもの
エレミヤ書の5章、これは劇的な章です。神の心の動きを読み取ってください。

5:1「エルサレムの巷を歩き、見て知るがよい。誰か公義を行い、真実を求めるものが見つかったら、私はエルサレムを許そう。」
主はエレミヤにこのように言われます。これは神の「許そう」という意思が伝わってくる言葉です。

しかしエレミヤはそれが信じられません。あなたの目は真実に向けられていないのでしょうか。
真実を見ようとされていないのでしょうか?そんな人はいませんよ、というのです。
主を恐れない人々が、ぜんぜん平気でぴんぴんとしているのを見ているからです。
でもこれらの貧しい、おろかな人たちだから、神の事がわからないのだと思って、身分の高い人のところを見てみても、その人たちもだめなのです。
 そうです。義人は一人もいないのです。
神がロトのいるソドムについて アブラハムに言われた言葉を覚えていますか。(創世記18:23-33)でもソドムは滅ぼされましたね。またローマ書ではパウロが「義人はいない、一人もいない」と強調しています。

そこで、神は人々の様子を交えながら、来るべき裁きについて話されます。
 まず、神は裁きは避けられないといっています。背信が激しいので、とうてい許すことはできないと。
 イスラエルはぶどうにたとえられますので、そのつるを除けといっています。
でも、ここに少し希望があります。10節ことごとく滅ぼしてはならないといっています。
全滅にはされません。主のあわれみがここにあります。誰も認められるべき人はいないのですが、神は誰かは残しておかれるのです。

それでも、人々の傲慢さはひどいものです。
 「災いは私たちを襲わない、と人々は公言してはばからないのです。
 神の言葉を代弁すべき預言者たちでさえも、厳しいことは言わないので、恐れるに足りない。
彼らは風のようだといわれています。
 神の怒りは燃え上がります。私の言葉を火とし、民を薪とする。神の言葉によって、人が燃やし尽くされてしまうのです。
 でも、主は憐れみを与えてくださります。ことごとくは滅ぼされないのです。具体的にはユダがバビロンにより、侵略され、ユダの有力者がバビロンに連れて行かれ、そこで、奴隷の生活をさせられるようになるmバビロン捕囚のことがここに予言されています。
なぜかといわれれば、「本当の神を捨て、にせものの神々に仕えたように、あなた方の国ではない土地で、他国人に仕えるようになる」 当然の帰結です。

人々は、主を恐れないのか、わたしの前におののかないのです。かたくなで、逆らう心があるのです。
人々が主を恐れないこと、それが問題です。
 さらに事態を悪くするのは、悪い者たちがいて、人々に欺きのわなを仕掛けていることです。神など恐れる必要は無いと欺く人が多くいるのです。人々はその欺きを受け入れ、豊かになり、悪事を平気で行い、孤児を裁いて、幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しないのです。ここに社会的公正が行われていないことが非難されています。主はこれらを黙認しておられません。公正が行われていない。真実が求められていない。これがエルサレムの罪です。

 当時エルサレムという中央都市は地方の人々を搾取していたといわれています。エルサレムに住んでいない人々はいろいろなものを奪われていたのです。社会的な不正です。
 また真実ということについてさらに言えば、偽りの平和を予言するものが多くいました。
当時はバビロンが覇権を握るのは時間の問題でした。そのためそれぞれの隣国とバビロンの間で戦いが起こることは避けられない状況だったのです。偽りの預言者はその事実を認めず、安易に平和を語っていたのです。平和がないのに、平和を語る。それは偽りであり、真実をゆがめていることになります。
真実をゆがめるということは、神を神と認めない、人を人と認めないということにつながります。
イスラエルの人たちは、自分のねがいがかなうことだけに夢中になり、神様がいつも愛し、守ってくださっていることを忘れていました。そして真実を聴こうとしませんでした。

 では神が求めておられる真実とは何でしょう.科学の言う真理とはちょっと違う、外見からはわからないものです。
神を認め、神のメッセージをしっかりとうけとめること。人を人と認め、敬うこと
何より自分の小ささを認め、そして主がそんな私を顧みてくださっているということを受け取ることです。これこそ、人間の真実、本当のあるべき姿なのです。

 真実を求めるというのは口先だけのものであってはなりません。神は生きているということを言っても、それが本物になっていないということもあるのです。

 もっとも理解するのが難しいものは、私たち自身であるといった哲学者がいます。私たちは自分たちの本当の姿をなかなか見る事が出来ません。それは勇気が無いからかもしれません。でも本当に神様に心を向けて、自分を預けるならば、神がそれを見せてくださるのです。私たち一人ではできないことも神がともにいてくだされば、私たちにはできるのです。

 ヨハネの福音書16:4に「私は真理である」というイエス様の言葉があります。
イエス様は、真理なのです。真理は物事ではなく人なのです。
イエス様は私たちが聞きたくないことをいうかもしれませんが、それは真理なのです。私たちの知らない深い愛を教えてくださるかもしれません。それも真理なのです。イエス様とともに生きることは、真理とともに生きること、真理の中に生きることです。

 エレミヤの5章で言われているように、人はまったく真理を求めていません。しかしイエス様は罪の無いお方、真理を求めるお方、いえ真理そのものであられます。
そのイエス様が、この地上に来てくださり、私たちを招いてくださっているのです。イエス様によってのみ、私たちの不真実が許されるのです。

 神との契約を破り続ける人間に対し、神はこのエレミヤ書の5章のように、裁かれるといわれます。当然です。私たちが契約を守っていないからです。
でも神は私たちをお見捨てにならないのです。イエス様を送ってくださったのです。神は、自分ではどうしようもない、真理など無い、真理を求めもしない人間をそのまま救ってくださる、これがまた神の真理なのです。

 私たちも私たちの遣わされているそれぞれの場所で、真実を抱えて生きることができるよう祈りましょう。